2020年3月10日火曜日

言えなかった言葉たち

福嶋伸洋「海へ行くつもりじゃなかった」『すばる』2020年4月号、pp.78-112.

福嶋さん2作目の小説。コピーしてスキャナーで読み込み、ディジタル・ペーパーで読んだ。最初にビートルズが出てくる小説に敬意を表し、ゼーレン・マドセンがビートルズ・ナンバーを弾いているアルバムを聴きながら。

飲んでいるコーヒーは初めてのザンビアの豆。悪くない。

その前に食べたのはオムライス(本当は昨日の昼食に食べた、またしても星乃珈琲店のもの。その写真がとてもおいしそうだったので——と自画自賛するが——、つい、載せることにした)。

さて、小説の話。高校から学位を取って大学で教えるまでの長いスパンを扱っているけれども、中心は高校時代の話と言っていい。語り手兼主人公の「ぼく」は作者自身と重なる要素が多いので、それを「自伝的」と称してもいいのかもしれない。高校時代を中心に扱っているから青春小説と呼んでもいいかもしれない。青春小説には語り手「ぼく」を導いてくれるメンター的存在がいるものだが、ここでの「ぼく」は、音楽の面でフリッパーズ・ギターなどを教えてくれた涼、その家ではじめてボサノヴァを聴かせてくれた宗介、フランスの詩人や高校の先輩としての堀口大學を教えてくれた未歩などのメンターを得、東大から外語大の大学院に進み、ブラジルの詩人についての博士論文で学位を得る。これはそういう福嶋さんに似た「ぼく」の話であり、「ぼく」のメンターたちの群像劇だ。

かつて、あるシンポジウムで自らを「ポスト渋谷系」と位置づけた福嶋さんのテクストに溢れる音楽、着こなしのファッショナブルさ、空気の描写のしかたはさすがだ。造り酒屋の息子である涼の実家の蔵や、花火大会など、1945年8月1日の空襲の記憶が不在として存在感を発揮する長岡の街の雰囲気も印象に残る。(と同時に、福嶋さんより15歳ばかりも年上で、長岡の足下にもおよばないような辺鄙な田舎で育った僕から見れば、ずいぶんと新しい時代の、都市を扱った作品にも感じられる)

涼が以前つき合っていた幼なじみの礼香はフランス料理店の娘で、何やら大人びていてかっこよく、妊娠したと告げて高校を退学に追い込まれる。

 そのときのぼくはまだ、妊娠した十代の女子をそんな形で退学に追い込んで外の世界に放り出すことは間違っているとはっきり考えることはできなかった。礼香にとって妊娠が、自分の置かれた立場を誰かにわかってもらうための唯一の訴え方だったのかもしれないということにも、考えは及ばなかった。多くの同級生と同じようにぼくも、しくじったのは礼香で、その責任は自分で取るしかないと思っていた。(86)

何十年も経ってから、青春を描くことの意味は、この悔悟にあるのかもしれない。女の子と関係を持った経験があるかどうかもわからない「ぼく」を置いてけぼりにして妊娠し、学校を去る同級生に、本当はどう対処すべきだったのか。そんなことなんて、若い「ぼく」にはわかるはずなどない。それは何年も経ってから悔悟の念とともに思いつくものなのだ。

「ぼく」が言えなかったもうひとつのことは、宗介の恋人にして「ぼく」の文学のメンターである未歩への言葉だ。そしてこれが、『リオデジャネイロの雪』の著者である福嶋伸洋の面目躍如。

小説はストーリーに乗せて何らかの情報を披瀝するものであり、この情報の面白さも小説の面白さを大いに左右するのだが、ここに、世界で(おそらく)ただ一人、堀口大學の後輩であり、彼の詩を日本語で読み、彼がポルトガル語で書いた文章を一次資料で読んだ人物としての福嶋伸洋の存在価値が表現される。そしてまたその情報を友だちの恋人と少し後ろめたい思いを抱えながら一度だけデートしたその思い出に絡めるところが、うまいなと思わせるところ。それが自伝ではなくこの百枚ばかりの文章を小説として成立させている最大の勘所。