2020年2月2日日曜日

ウツウツと鬱小説を読む


ミシェル・ウエルベック『セロトニン』関口涼子訳(河出書房新社、2019)

こんな風に並べて、既にスピン(栞紐)をかけて最初に読むぞとの構えを見せていたのに、時間がかかったのは、時間をかけていたのではない。授業や〆切の原稿に追われて他を優先していたので半分くらいまで読んだところで中断していたのだ(結局、『シンコ・エスキーナス』の方を先に読んだ)。それで、今日、残りを読んだ次第。

ウエルベックにはどうしても社会の風潮を先取りしているという評価がつきまとうもので、今回もジレ・ジョーヌの先取りなどと言われたのだが、やはりその点はあまり強調する必要もないかなと思う。これは、言ってしまえば鬱小説だ。タイトルの「セロトニン」が、そもそも抗鬱剤キャプトリクスというものによって分泌が増加する物質の名なのだそうだ。

鬱小説というのだから、とうぜん、自殺の小説でもある。主人公=語り手フロラン=クロードの両親は、夫の病気が発覚し、ふたり一緒に自殺(心中)する。牛乳の値段についての政策に抗議する酪農集団で英雄のように振る舞った学生時代からの友人エムリックは武装蜂起の際に自殺する。抗鬱剤を飲む語り手は、しかし、突然、自殺ではなく、殺人に向かったりするのだが(これが大きな転換点。少しハラハラ)……

ウエルベック作品で重要な位置を占める性も、今回は鬱、もしくは抗鬱剤に起因する問題になってくる。副作用でほとんど不能となった語り手が恋人ユズを捨て、昔の恋人カミーユのことを思い出し、家出し、エムリックに会いに行くが、彼は妻に逃げられていた。話は一気にコンスタントにセックスする可能性を奪われた、少しばかり時代遅れな男たちふたりの物語の様相を呈してくる。ふたりは一緒に音楽を聴くのだが、一方でフロラン=クロードが武器を供与されるのもエムリックからである。

そんなに長い時期ではないけれども、抗鬱剤を飲んでいた僕としては、身につまされるというか、辛いことばかりなのだった。こんなに辛いのになぜ読んじゃうんだろう? 面白いんだな、きっと。