2014年6月28日土曜日

魔術的リアリズムの脱領土化、あるいは視点の問題

昨日のこと。いただいたのだ。『ユリイカ 特集ガルシア=マルケス――「百年の孤独」は語りつづける』2014年7月号。ぼくはここに「文字の都市の住人たち――ガブリエル・ガルシア=マルケスに対するアンヘル・ラマの共感と差異の感情」という一文を寄せている。

全体的に言って、ラテンアメリカをフィールドとする書き手たちよりも、そうでない人たちが「魔術的リアリズム」/「マジック・リアリズム」/「マジカル・リアリズム」という用語に正対している構図が見える。「マジック・リアリズム」というタームの脱領土化(河野至恩が奇しくもこの可能性を指摘していた)だ。ラテンアメリカニストの中には「あの忌まわしい用語〈魔術的リアリズム〉」と呼んだ者すらいた。

あ、それ、つまり、ぼくですけど。

かようにぼくは「マジック・リアリズム」という語を嫌っている。少なくともそれでガルシア=マルケスの作品を説明することを。そして、かように「マジック・リアリズム」の語は脱領土化され、汎用されている。ぼくはその日、「魔術的リアリズム」の名で形容される映画を観に行ったのだった。

前にも書いたかもしれないが、たとえば、ウディ・アレンの映画すら、幽霊が出てくるというので、「マジック・リアリズ」が云々される。ウディを追ったドキュメンタリー、バーバラ・コップル『ワイルドマン・ブルース』のインタビューでこの語が発された。しかし、字幕はそれをきちんと捉えていなかった。それには複雑な思いを抱いたものだ。こんな語、ウディの映画に使わないでくれ、という思いと、字幕製作者よ、少しは勉強してくれ、という思い。

それが、今、もはや脱領土化された「マジック・リアリズム」ではなく、「圧倒的な映像美でラテン・アメリカ特有の魔術的リアリズムをスクリーンに刻んでいく」映画が紹介されているというわけだ。

やれやれ。


ある田舎の別荘らしいところで夏を過ごす夫婦と幼い2人の子供。別荘を引きあげる段になって忘れ物を取りに帰った夫が、盗みに入っていた知り合いの男「7」(Sieteと発音されていたのでこれでいいと思う。字幕は「セブン」だったけど)を見つけ、難詰したところ、返り討ちに遭い、ピストルで撃たれる。翌夏、家族がまた戻って来たので、「7」が子供たちに父親のことを訊ねたところ、死んだと告げられる。後悔した彼は自ら命を絶つ。

たぶん、ストーリーはこんな感じだ。たぶん、というのは、断片的に語られ、かつ成長した二人の子供のシーンや、いつのことだかわからない、ヨーロッパ(フランス語圏)での乱交シーンなどが挿入されるので、攪乱されるのだ(あるいはこの乱交から生まれたのが子供たちだということなのか?)。

最後の「7」の自殺シーンは、なるほど、虚を突かれる。あらかじめパンフレットで読んでいたのだが、それでも、びっくりだ。これが「魔術的リアリズム」なのか? 

室内のシーンでは目立たないのだが、少なくとも屋外では焦点が狭められ、周囲がぼける映像を採用している。時々、焦点はさらに狭くなるようだ。映像に深みを出すためというよりは、フレームの周辺部を不確かにするために採用されているように、ぼくには思われる。端へ追いやられた映像は、その存在が疑われるのだ。そしてフレーム外からの音が多用されているので、観客は自分の視界の狭さに不安を募らせることになる。冒頭、ふたつめのシークエンスは幼女ルートゥ(レイガダス自身の娘みたいだ)の視点で犬や牛を追いかけるというものなので、焦点の狭さが子供の寄る辺無さと相乗効果を得る。子供のように周囲がはっきりと見えていない者が、常にその視界の端や外に何かの存在を感じて怯えている、そんな気持のまま見る2時間弱の物語だ。

フアンとナタリア(というのが夫婦の名)のある夜の会話では、フアンがフレームの外に出たと思ったら、とたんに彼の語気が変わり、夫婦げんかが始まる。夫婦の間に何らかのトラブルがあったことを示唆するシークエンスだが、果たして突然人格を変えたかのようなフアンは、本当にフアンなのか? あれは、物語冒頭で誰かの家に入り込んできた(その直前、ルートゥの遊んでいる空の端に何やらぼかされた視界の端に、不思議な光がきらめいたのをぼくらは見逃さない)山羊の頭と人間の身体、悪魔のような尻尾を持った生き物か何かとでも話しているのではないのか? と緊張が走るのだ。


「魔術的リアリズム」などではない。フレーミングという、映画にとっては最古の問題のひとつだ。焦点という、写真にとっては最古の問題だ。視点の問題なのだ。『ユリイカ』の記事に書いたように、小町娘のレメディオスは、目撃者の誰もがシーツで視界を遮られているときに空に舞い上がるのだ。