駒場での授業を終えて渋谷から乗った山手線が、最寄り駅より二駅または(数え方によっては)一駅手前で立ち往生したので、そこから歩いて帰ることにした。そこは学生時代に利用していた駅だ。土地勘はある。
ある交差点で、工事のために進入禁止にしているコーン(と整備員)の後ろの横断歩道で、渡らずに佇んでいる女性がいた。最初、なぜだろうと不思議でならなかった。気づいたら話は簡単、信号が赤だったのだ。進入をとめている場所なのに! 車なんて来ないのに!
車が来ないのに、赤信号だからといって横断歩道を渡らない日本人はサッカーに勝てない。
フィリップ・トルシエはかつて、そう言ったと記憶する。けだし名言だ。ぼくもその時、つぶやいていたのだった。車が来ないのに、赤信号だからといって横断歩道を渡らない日本人はサッカーに勝てない。
トルシエの言ったような(というか、その裏の)振る舞いは、今なら、「マリーシア」(つまり、「あくどさ」ということだ)というポルトガル語で知られているものだろう。ルールは、場合によって少し逸脱するべきだ。それに縛られるのは愚か者だ、ということ。
これをサッカーのことに限定するなら「マリーシア」だろうが、これを敷衍するとジェイチーニョと言うらしい。jeitinho。つまり「ちょっとした振る舞い」という程度の意味か? まったく、赤信号の呪縛に縛られて動けない日本人にはジェイチーニョのなんたるかを教えて差し上げたいぜ。
……なんて考えるのは、その立ち往生した山手線の中で読んでいたのが、武田千香『ブラジル人の処世術――ジェイチーニョの秘密』(平凡社新書)だからだ。武田さんのまとめによれば「ジェイチーニョ」とは、「なにかやろうとして、それを阻むような問題や困難が起こったり、それを禁止する法律や制度にぶちあたったりした場合に、多少ルールや法律に抵触しようとも、なにか要領よく特別な方法を編みだして、不可能を可能にしてしまう変則的解決策のこと」(16ページ)なのだそうだ。
素晴らしい。そんな社会こそ、理想だ。(あ、そうでもないか。ぼくはわりと自分の前に割り込みされたりしたら、腹立てるしな)
ホベルト・ダマッタ(ロベルトだね、つまり)らを引きながら、階級社会を背景とする「誰と話しているかわかっているのか」との対比でジェイチーニョの民主的なることを説いたりされた日にゃ、素晴らしい、と叫んでしまいそうだな。ぼくはあくまでも、どんな理由があっても、誰かに列に割り込まれたら腹を立てるだろうけれども。
後半には文学作品(ジョルジ・アマードやマシャード)におけるジェイチーニョの分析なども含んでいるので、前作『千鳥足の弁証法』の一部から産み出された、いわばスピンオフなんだろうなと思う(前作ではマシャードの「マランドロ」が考察されていた。ここでは比較の対象にあげられる)。武田さん、このところ、多産だな。やるな。