2014年6月22日日曜日

ひとつのありうべき回答

以前、ボラーニョ『2666』の刊行を記念して、「『2666』ナイト」という催しがあった。その第1回目、訳者3人のトークショーのときだっただろうか? 質疑応答の際に、第4部「犯罪の部」で列挙されるレイプ殺人事件の被害者がことごとく肛門にも挿入された痕があることが記されるのはなぜか、との質問が出た。メキシコではアナルセックスが普通なのか、と。第4部の翻訳を担当した内田兆史さんは苦笑い。よくわからないなあ、と応えていたように記憶する。

いささかひっかかるものがあった。頭の片隅に何かがあった。

ジェイムズ・ウッダル『ボルヘス伝』を読んでいて思い出した。V・S・ナイポールがこんなことを書いていたのだった。

 手軽に買える正常な性行為は〈男らしい男〉にとってまるきり重要ではない。女の征服は女の尻をものにしたときにはじめて完全なものとなる。女はそれを拒否することを許されており、売春宿のゲームはそれにかかわっている。愛(ルビ:アモール)の囁きで始まる情熱抜きのラテン風アバンチュールである。「あの女の尻をものにしたぜ(ルビ:ラ・トゥベ・エン・エル・クロ)」、それが〈男らしい男〉の勝利を仲間に吹聴し、あるいは遺棄にけりをつけるやり方である。現代の性科学者たちは釜を掘ることに全般的な赦免を与えている。しかし女の尻を攻めることはアルゼンチンや他のラテン諸国において特に重大である。教会はそれを重罪とみなし、売春婦たちはそれを恐ろしいことと考えている。娼婦たちのいやがることを、そして一種の性的な黒ミサであると自ら心得ていることを女に強制することによって、主としてスペインやイタリアの小農の血を引くアルゼンチンの〈男らしい男〉は、意識的に自分の犠牲者を辱めている。(「エバ・ペロンの帰還」『エバ・ペロンの帰還』〔工藤昭雄訳、1982〕、175-6ページ)

うーむ。本当かなあ? でもまあ、くだんの質問にはこの一節を教えて差し上げたかったな。

ちなみに、教会は肛門性交を「重罪とみな」すと書いているけれども、日本には鶏姦罪というのがあったのだ。鶏姦というのは、肛門姦のこと。アナルセックスは同意の上でも罪だった。ただし、この鶏姦は男性同性愛行為の言い換えだけれども。


(写真は、あくまでも、イメージ)