フランク・パヴィッチ『ホドロフスキ―のDUNE』(アメリカ、2013)
『エル・トポ』(1970)でニューヨークの深夜映画館を熱狂させ、『ホーリー・マウンテン』(73)でヨーロッパにも知られるようになっていたアレハンドロ・ホドロフスキ―が1974年、パリのミシェル・セドゥーと組んでフランク・ハーバート『デューン/砂の惑星』を撮ろうと合意し、準備を進めた。先日死んだH.R.ギーガー(建築物デザイン)やクリス・フォス(宇宙船デザイン)、ダン・オバノン(特殊効果)といったスタッフにミック・ジャガー、サルバドール・ダリ、オーソン・ウェルズといったキャストから了解を取りつけ、メビウスことジャン・ジロドーと詳細なストーリーボード(いわゆる絵コンテだ)を作って準備を進めたけれども、結局、実現するにいたらなかった。
そのことを知ったパヴィッチが、ホドロフスキーとセドゥー、その他の関係者のインタヴューを撮り、ドキュメンタリーに仕上げたのが、この作品。
情熱を込めて突拍子もないアイディアを語り、周囲を巻き込んでいく人物は一定数いる。ぼくのまわりにもいる。こうした人物が、その情熱を傾けた表現に失敗すると、得てして巻き込んだ周囲を不幸にするものだ。ぼくもそんな種類の人間の被害に遭ったことはある。が、ホドロフスキーの場合、成果は上げてきたから、そんな迷惑なタイプではないだろうと思う。唯一挫折したこのDUNEの場合も、関係者は皆、彼を怨んでいないらしいところがすごい。それだけ練り上げた計画から予想される映画の完成品が素晴らしいものだったということだ。時代の先を行き過ぎていて、撮影に漕ぎ着けられなかったのだと総括しているということだ。あれが作られていたら、SF映画の歴史を作ったのは『スターウォーズ』ではなかったはずだ、と。実際、千ページは優に超えそうなストーリーボードや、その中味を見せられると、これがかなり周到に用意されたものだったことはわかるし、面白いものになっていただろうという気はする。
重要なのはこのストーリーボードがハリウッドの多くの製作会社に持ち込まれ、検討されたということだ。そしてこの映画自体は製作されるにはいたらなかったれども、アイディアの断片が『スターウォーズ』や『エイリアン』、『フラッシュゴードン』といった後の映画に利用されたのだということ。もちろん、アイディアだけでなく、ギーガー、オバノン、フォスといった作り手たちがそれらの作品にかかわり、DUNEでの経験とアイディアを活かしていった。ホドロフスキーのDUNEの最終シーンは、原作と異なり、殺されたポールがひとりひとりの中に生き返り、惑星そのものがもはや砂の惑星ではなくなって再生するというものになるはずだったらしいのだが、これが映画DUNEそのものの運命の隠喩のように感じられる。実際、当時12歳でポール役を演じるつもりでさまざまな武道を習わされたブロンティス・ホドロフスキーは、父の隣で嬉しそうにそう言っていた。
その後、周知のごとくデイヴィッド・リンチがDUNEを作るわけだが、それを嫌々ながら観て失敗作だとわかったときには嬉しくなった、と語るホドロフスキーが愛らしい。
冒頭、パリの自宅の本棚をゆっくりとパンするカメラが、面出しになった『リアリティーのダンス』日本語版を捉えたのだった。友人・青木健史の訳業。なんだか嬉しくなった。
ところで、完成しなかったのだけど、その断片が後の映画史に暗然たる影響を与え続けている、というのは、何かに似ている。そうエイゼンシュテイン『メキシコ万歳』だ。これはその後、編集されて公開され、DVDにもなっているけれども……これもメキシコだ。ホドロフスキーが長く住んでいたのメキシコ。メキシコはこうして映画の歴史を変えてきた……のか?