昨日、やはり気になったことは、言葉に関するもの。ツイッター上である知人がある書き込みを引用していた。それが、ナントカという女性3人組のユニットのメンバーが、それぞれ中央・慶應・外語のドイツ語の出身だというもの。
そもそもそのユニットを知らなかったので、ネットで検索、映像なども見た。見なけりゃよかった。芸もなければ品もない、さりとて下品を極めるきざしもない、物珍しさだけで持ち上げられているらしい、見るに堪えない連中だった。1年後にはきっと誰も覚えていないだろうこんな人々のことを、だから、相手にしようというのではない。こんな人たちにかかずらわるほど、おじさん、暇ではないのよね。(と言ってるわりに3行も書いた)
問題は、この人たちのことをこの出身大学を引いて「高学歴」と表現していたことだ。ためしに検索したときに引っかかった、同じ情報についての他の反応(ブログ記事、他のツイッター記事)も「高学歴」だと驚いていた。
ある知人の学生が、この記事を引いて「問題は外語が『高学歴』と呼ぶに値するかどうかだ」などと書いていたことからみてもうかがい知れるのだが(こういう自虐的でゆがんだ自意識持つやつ、たまにいるのだよ)、この記事を流布させている人たちは「高学歴」の意味を、どうやら取り違えているらしいのだ。
大学全入時代だ。たいていの人が大学に入り、そして卒業する時代だ。もはや大学卒は、本来の意味での高学歴ではありえない。だからその空いた意味を流用してのことだろうが、どうやら人は「高学歴」を「成績優秀」、「難関大学の出身」というような意味で使っているらしい。東大卒は日大卒より高学歴(名前のスケールは日大の方が大きいのにね)、という考えかたなのか? 冗談じゃない。両者は学歴の点では同等だ。
やれやれ。これが単に学歴差がなくなりつつあることの結果だけならば目くじらたてることはないのかもしれない。「そんな誤法をするなんざ、君ら、学歴が低いな? 大学出やがれ」とでも言っていればいいのかもしれない。でも、ひょっとしたら、これも「成績優秀」(あくまでも受験段階での話だけど)という語を使わないための婉曲語法だったら、と危惧するのだ。
「成績優秀」、「頭いい」という語すらも使えない、その使用が避けられているのだとしたら? それくらい言ってやれよ、と思う。どうせ受験段階での話なのだから。どうせどこの大学を出ようとも大卒は大卒という同じ学歴なのだから。