2011年9月29日木曜日

秋の夜長は読書をしろと……


朝、腰痛を感じた。無理して歩いたら、足首がおぼつかない。倒れそうになった。今日はラテンアメリカの都市の修復やらバルセローナの都市化やらの話を聞きに行く予定だったが、大事を取って取りやめた。夕食後には腹までこわした。

やれやれ。要するに踏んだり蹴ったりだ。

腰痛は動けないというほどではないが、気になるところ。学期開始直前に腰痛に見舞われた十数年前、冬に大病を患ったのだ。因果関係があるのかないのかわからないけれども、以後、どうにも怖くて仕方ない。

徴候としての腰痛はともかくとして、その十数年前の大病以来、ぼくはどうにも現実感がなくていけない。目の前で起こっていることに自分が参加しているという感じがしないのだ。悪く言えば、そのとき以来、感情が麻痺し、小説などのストーリーに対する感覚がなくなり、記憶力が悪くなっている……ような気がする。

記憶力が悪くなっても、読むしかない。悪くなったら、記憶の中にためこんでおくためでなく、外部に出力するために読むしかない。腰が痛いのだし、夜は長いのだし、秋は読書の季節だからなのか、3冊も献本をいただいたのだし。
順に:八木久美子『グローバル化とイスラム:エジプト「俗人」説教師たち』(世界思想社、2011)
 イスラムが不変だと思ってはいけない。19世紀には西洋からの近代化の波、20世紀後半にはグローバル化の波、などを被りつつ、イスラムへの回帰も見せつつ、知識人としてのウラマーの存在のしかたが代わり、かくしてエジプト社会の今がある、という内容。

アルセーニイ・タルコフスキー『白い、白い日』前田和泉訳、鈴木理策写真(エクリ、2011)
 アンドレイ・タルコフスキーの父にして「その日、僕は世界を見たのだ」(13ページ)の詩人であるアルセーニイ・タルコフスキーの詩集。鈴木理策の写真が光を捉えて美しい。

管啓次郎『島の水、島の火:Agend'Ars2』(左右社、2011)
 詩集Agend'Arsの第2集。「私たちの目が光の受容器なら/すべての木の葉は目」(26ページ)。これなどは先の鈴木理策の写真にむしろ添えて謳いたい。グリッサンの追悼の詩を含み、クレオールへの志向性の強いものとなっている。

移動は歴史の要請
移住は心の冒険
マングローヴのもつれが四世紀の記憶を
火として野に放つ(64ページ)

そういえば管さんはグリッサンの『第四世紀』を訳すはずだ。その話をうかがったことがあったのだった。

学校に夜はなく夜に学校はない
砂糖黍の死者のための焚火のまわりに集い
闇の中でMaître-la-nuit(夜の親方)の語りに目を輝かすだけ
幾千の通夜がそうして遠い土地の記憶を伝えてきた
Yé, kric!
Yé, krac!
パトワ(島言葉)が語るありえない不思議の物語を
デレクとその双子の弟は隣の島で英語で聴き取り
おれたちはフランス語で震えながら聴き取った(66-67ページ)