2011年9月12日月曜日

怒鳴るな

鉢呂吉雄経済産業大臣が就任一週間ほどで辞めたそうだ。理由はいつもの失言問題らしい。が、その失言問題、今回は少しばかり様相が違っている。

最初は福島原発付近を「死の町」と表現して、メディアや野党、与党内野党政治家らに叩かれたらしい。ところが、原発の事故で人が住めなくなった町を「死の町」と表現するくらいは正しい言語表現だという擁護論がツイッター上などで形成されていった。すると次に出てきたのが記者団との私的なやりとりの最中に「放射能をつける」とかなんとか、それに類する表現をした、とのリーク情報。これで騒ぎが蒸し返された。そして失言の責任をとる形で辞任した。鉢呂吉雄は原発をゼロにすると明言したり、大臣就任後、資源エネルギー調査会のメンバーを入れ替えるように要請した人物だった。それで、このたびのバッシングは東電と結託したメディアおよび、官僚・政治家による陰謀説がだいぶ有力な説としてささやかれてもいる。

まったく、へそで茶を沸かすとはこのことだ。本当にやっていられない。絶望的な気分だ。

政局やらメディアと役人の陰謀やらのことは今は語らない。言いたいことはひとつ。人の住まなくなった町はゴーストタウンという。ゴーストタウンとは幽霊の町だ。つまり死者の町。死の町。こんな正統な語法を口に出したときに不謹慎だとの攻撃の糸口を与えているものは何なのか? これは問い続けていくべき問題ではないのか。その何かが、この国にはびこる数々の不要な婉曲語法や迂言をのさばらせているものだ。この不気味な力に対して死の国は死の国と言い続けなければならない。パンはパンであり、ワインはワインなのだ。

それにしても、鉢呂(鉢呂は鉢呂だ鉢呂元経産大臣などと言ってはいけない)の辞任会見は、Ustreamで見たのだが、何ごとかを考えさせた。例の「放射能」云々の発言内容に関してはよく覚えていないと主張する鉢呂に対し、激高して「説明しろ」とすごんだ記者がいた。その不可解な激高……というよりも恫喝口調に、他の記者がその彼をたしなめる始末だった。あの罵声に対しても怒鳴り返すことをせず、落ち着いて対処した鉢呂の態度には敬意を表していいと思う。

つい十数年前までTVのニュースショウには何がそこまでさせるのかはわからないけれども、怒鳴り散らしてすごみ、恫喝する政治家たちがときおり映し出されていた。あまつさえそんなやくざものが人気者に祭り上げられさえしたのだ。そんな悪夢のような光景を忘れられないでいるぼくにしてみれば、記者の恫喝に冷静に対処する政治家がいるということは、感動的な事実と思える。ぼくなら怒鳴り返しちゃう。

そういえば、今週末、怒鳴る人をもうひとりぼくは見た。玉木宏だ。いや玉木宏と佐々木蔵之介、西村和彦などだ。松本清張の『砂の器』の何度目かのTVドラマ化作品というのを、ぼんやりと見ていたのだ。

恥ずかしながらぼくは『砂の器』を読んだことがないし、過去のTVドラマ化や映画化(されたのか?)作品も見ていない。だから、実は今回はじめてその話の内容を知ることになったわけだし、原作や前作との差異などもわからない。けれども、犯罪の動機を野心の点から説明しようとするヴィジョンや、被害者の素性を辿るヒントとしての方言(これの変種が『人間の証明』におけるニューヨークの英語のバリエーションというもの)という道具立てなど、ある種の警察小説の型が、ここで作られたのかな、などと思いながら見ていた。

クライマックスは刑事(玉木)と犯人(佐々木)の心理戦だった。物的証拠と状況証拠を半々で積み上げていって、自白を得ようとする刑事と、その手にはかかるまいと耐える犯人。戦災孤児、生き別れになった父、捏造された戸籍……こうしたものを前にしての心理戦で、ついつい声が荒げられ、2人は怒鳴り合う。

そういえば、やはり、うんざりするほど大量生産された刑事物のTVドラマなどでは、やたらと刑事たちは怒鳴っていた。この怒鳴り声による取り調べというトピックも、松本清張原作ドラマが作り出したものなのだろうか? でもなあ、単なる恫喝ではなく、こうした息詰まる心理戦のあげくの激高だから、怒鳴り声も受け入れられるのだ。恫喝にしか響かない怒鳴りながらの取り調べは、やはりついて行けないのだよ。やってはならないことなのだ。

公共の場で怒鳴る者を信じてはいけない。称賛してもいけない。怒鳴る者は単にやましさを抱えている者だ。怒鳴るときはついに犯罪が吐露されるときなのだ。