昨日届いたのは、これら:
『歌劇』8月号には僕のインタヴューが載っている。花組が『哀しみのコルドバ』を上演するとかで、それに関連して少しばかりしゃべっている。
今問題にしたいのは右側のもの。
グアダルーペ・ネッテル『赤い魚の夫婦』宇野和美訳(現代書館、2021)。
原書は2013年。5篇からなる短篇集。翻訳でも本文は150ページに満たないので、昨日いただいて昨日のうちに読み終えた。
いずれの短篇も一人称の語りであることが一貫した特徴。ただしその語り手=主人公は女性だったり男性だったり、国籍も職業も様々だ。年齢は同じくらいの模様。そしていずれも動物と共振する状況を生きている。
表題作「赤い魚の夫婦」では妊娠中の夫婦の危機とそのカップルがもらった金魚(シャム闘魚とも呼ばれるベタ・スプレンデンスの一種)のつがいの危機がパラレルに語られる。
僕はここに、コルターサル「山椒魚」の影を読み取らないではいられない。
彼(三匹目のオブローモフと名付けられた魚:引用者注)が幸せだったとはとても思えない。昨日の午後、真っ赤なヒナゲシの花びらのように水面に浮いているのを見たとき、それが何より悲しかった。彼のほうは、夫のヴァンサンとわたしが彼を見るよりもずっとじっくり冷静に、こちらを観察する時間があったはずだ。そして彼なりに、わたしたちのことを憐れんでいたに違いない。(11ページ)
そして「わたし」は自分のもらった金魚のことを調べるために図書館(おそらく、「山椒魚」と同じサント=ジュヌヴィエーヴ図書館。「わたし」はパリ在住の産休中の弁護士)に調べ物に行くのだ。
2作目「ゴミ箱の中の戦争」は今では昆虫学者として大学で教鞭を執る「ぼく」が、少年時代、両親の離婚の危機のために預けられた伯母の家でゴキブリと関係を持つはめになる話で、リスペクトル『G・Hの受難』を思い出す。
読み終えた後で書き出しを読み返すと大いに笑わないではいられない。
ラボや教室に入ったとき、ぼくはいつも隅っこに行きたがると、研究仲間から指摘されたこどかある。また、道の真ん中より、塀ぎわを歩くほうが安心できる。これといった理由は説明できないが、その癖には、きっとぼくの気質が深くかかわっているのだと思う。(49ページ、下線は引用者)
言うまでもないが、こうしてこれを引用している僕自身もまた、端っこが好きで、塀ぎわしか歩かないのだ!
第3話「牝猫」は「わたし」の妊娠と同時に飼い猫が妊娠する話。あるいは逆。飼い猫が妊娠し、「わたし」が妊娠する。「わたし」は卒論を仕上げ、プリンストンの大学院に進学しようとしている歴史学の学生。
第4話「菌類」は不倫と身体に取り憑いた菌の話。語り手の女性はヴァイオリニスト。
最終話「北京の蛇」はいささか異質。語り手「ぼく」が蛇にとりつかれた父を語る話だ。つまり、語り手が動物との共振の当人ではない。父は中国生まれでフランス人に養子にもらわれた劇作家。母はオランダ人女優。
動物との共振はまた、語り手の自身の肉体への意識をも鋭敏にする。やはり表題作から。
産婦人科の前回の定期検診で、児頭が骨盤にもぐりはじめていると言われた。それはわたしが腰に感じていた感触とぴったり合致していた。あたりが静まりかえった午後、ときおり恥骨がきしむ音が聞こえた。(23ページ)
訳者の宇野和美は「とりわけ表題作は、自分が似たような境遇だったころの息苦しさや戸惑いを思い出しながら何度も読み返した」(「訳者あとがき」148ページ)とのことだが、うまれた娘のリラが高熱を出した日、夫が会計監査とその後の打ち上げを口実に午前様となり、「わたし」が怒りを爆発させるというくだりなどは、なんだか東京のサラリーマンもののようで、その意味でも共感を呼びそうだ。
最初と最後のものはパリ、他はメキシコ市を舞台にしているのだが(「菌類」はコペンハーゲンやらバンクーバーやらとあちこち飛び回るし、住まいはメキシコ市とは特定されていないが)、主人公たちの住む住環境がなんとも言えずいい。「いい」というのは単にすてきという意味ではなく、その住環境への主人公たちの適応のしかたがいいといえばいいのだろうか? みたび、表題作から:
わたしは茄子のパスタを作って立ったまま食べながら、むかいの建物の修繕をしている二人の作業員をキッチンの窓から見た。食べ終わると、使った鍋と汚れた食器をさっさと洗った。それからぶらりと散歩に出て図書館に行った。(16ページ)
こういうパッセージがあると、僕はついつい引き込まれて読んでしまうのだな。それで、昨日のうちに全部読み終えたという次第。
表題作からの引用をこれだけしておいて言うのも何だが、猫好きでかつ大学人である僕としては「牝猫」がいちばんのお気に入り。メキシコ市が舞台だし。