2023年1月2日月曜日

花びらのおぞましさ

グアダルーペ・ネッテル『花びらとその他の不穏な物語』宇野和美訳、現代書館、2022



昨年、いや、もう一昨年、『赤い魚の夫婦』の翻訳が出たネッテルの第二弾が、同じ訳者、同じ版元で出た。


「眼瞼下垂」「ブラインド越しに」「盆栽」「桟橋の向こう側」「花びら」「ベゾアール石」の6作品からなる短篇集。タイトルにあるとおり「不穏な」incómoda 気持ちにさせる悪癖・奇癖を持った人々の話。


「眼瞼下垂」は成形手術のいわばbefore-after写真を撮る写真館の息子が、ある瞼に(その持ち主に?)惚れ込み、自ら写真を撮り、手術を思いとどまらせようとする話。


「ブラインド越しに」は向かいの建物のそれこそ「ブラインド越しに」男性が女性にじらされひとりで隠れて自慰行為に耽るさまを見る話。セックスをするのではなく、じらされた挙げ句、まだ女性がそこにいるのに独りで隠れてマスターベーションをするというところが、取り分けて変態で「不穏」だ。


「盆栽」はいつもいく植物園で園長に教えられ自分がサボテン的であるとの自覚を持ち、正反対の妻とうまく行かなくなる話。日本を舞台に、固有名や細部に村上春樹的な要素がちりばめられている。おそらく初出は Bogotá 39 (2007)(39歳以下の39人のラテンアメリカの作家を集めたライターズ・イン・レジデンス。およびその成果としての作品集。この試み世界の他の地域に広まり、ボゴタでもその後再び開かれた)のこの短篇についてはかつて久野量一が紹介していた(「メキシコ若手作家の戦略と村上春樹」柴田勝二、加藤雄二編『世界文学としての村上春樹』東京外国語大学出版会、2015236-40ページ)。いわく「春樹を擬態する戦略」であり「信仰告白」(239)だと。なるほど。そのとおりだろう。異論はない。が、一方で、この舞台となる植物園は、僕にはあくまでもパリの植物園、コルタサルの語り手=主人公がその中にある水族館でウーパールーパーを発見し、ウーパールーパーに変じてしまう(「山椒魚」)あの植物園のにおいがかすかにするようにも思うのだ。


「桟橋の向こう側」は〈ほんものの孤独〉を希求する少女が叔母夫婦の買ったリゾート地の別荘とも言えないあばら屋で過ごす日々を綴ったもの。女性版中二病? 末期の母を見取りにきた同年代のフランス人少女と意地の張り合いをし、仲良くなる。デビュー時のフランソワーズ・サガンをメキシコから裏返して見た感じ。たまらなく愛おしい。


「花びら」は女性トイレで痕跡やにおいを探し回る語り手兼主人公の「ぼく」が理想の痕跡にフロールという名をつけ、そのフロールとの邂逅を願って彷徨する話。変態版これもコルタサル? ついに出会ったフロール(花の意だ、もちろん)がついにおぞましい花びらになる瞬間を目撃し、しかしそれに対して冷淡であるところがいかにも無気味で、「不穏」を通り越す感情を抱かせる。


「ベゾアール石」は強迫神経症(というのかな?)から髪を抜くことがやめられない思春期の少女が、そのことを見抜いた、しかし同じくらい脅迫的に奇癖を繰り返す男と同棲し、薬物に溺れ、事件を起こし、入院して、治療のために手記に回想を書いているという体裁。自分が抜いたわけでもないのに髪が抜ける一方の僕にはあまりにも痛々しい話だ。