帰国した。
帰宅した。
ホテルのチェックアウトが現地時間20日(月)13:00。飛行機の出発予定時刻が21日(火)1:01。早い話が、20日の深夜(感覚)。時間ぎりぎりにチェックアウトしても12時間、飛行機へのチェックインがぎりぎりでも10時間ばかりの時間がある。最終日だという意識があるし、ホテルも発っていることなので、なんだか手持ちぶさた。とても困るのだ。
前の晩、ちょっとした仕事でメキシコに滞在していた教え子とアルゼンチン料理など食べながら、映画の話をし、映画を観るのがいいのじゃないかと勧められた。
なるほど!
こんなそわそわと落ち着かない日でも、映画は観ているうちに集中する。集中するけれどもある時間が来れば終わるから、熱中しすぎて時間を忘れ、取り返しのつかないことになることもない。ちょうど国立フィルムライブラリーCineteca Nacionalでは『ネルーダ』と『ジャッキー』、つまりパブロ・ララインの2作が観られるぞ、と……
シネテカは特集上映などのみならず、今では新作の上映もするし、今はキューブリックの展示会とか、そんなものも行っている。シネコン並みにネット予約もできる。スクリーン数も増えた。そして休日だった20日(月)は、実際、シネコンのように客がたくさん来ていた。『トレインスポッティング2』のチケットもう買えないんだってよ! なんてやり取りが聞こえてきた。
さて、14:00から『ジャッキー』を観て18:00から『ネルーダ』を観れば、終わるのは20:00少し前。そこからホテルに引き返して預けていた荷物を受け取れば理想的だ! どうせ飛行機の中では寝てばかりで映画など観られないのだから、その代償に、最終日は映画を観よう。
……と思ったのだが、ちょっと本屋に寄ったりしている間に、『ジャッキー』は16:00からだと記憶が書き換えられ、見損なってしまった。その代わり、パトリシオ・グスマンの『真珠のボタン』を再見。素晴らしい作品であることを再確認。
『ネルーダ』(アルゼンチン、チリ、スペイン、フランス、2016)は上院議員になったネルーダ(ルイス・グネッコ)が大統領ガブリエル・ゴンサレス=ビデーラ(アルフレード・カストロ)を敵に回し、地下活動に入り、ついで亡命を余儀なくされたころ(1948-)を扱い、その詩人を追跡する警官オスカル・ペリュショノー(ガエル・ガルシア=ベルナル)を中心に据えた物語だ。
こう書くと、まるで事実に即した、ネルーダ亡命の物語かと思うだろうが、それが、そんなことはない。この映画はなかなかにくせ者なのだ。だいたい、参議院議員となったネルーダが共産党に所属したことによって最初に引き起こした軋轢を表現するのが、サロンなのかトイレなのかよくわからない場所なのだから、そもそもの最初からヘンだなとの疑いが湧き起こる。
ネルーダの描き方にしてもロベルト・アンプエロの『ネルーダ事件』張りに悪意に満ち、売春宿で遊び呆けるは、十年一日、同じ詩を詠んで人気を博して浮かれているは、妻が隣にいるのに口述のタイプライターの女性の胸に手を這わせるは…… まあ、ネルーダ神話を強化したいだけなら、きっとその最期を描くはずだろう。
このヘンな感じがだんだん形を取り始めるのは、オスカルがネルーダを追跡して行く先に常に置いてある一冊の本があるからだ。どうもネルーダの好きな推理小説らしく、その小説には自分のことが書かれているようで、オスカルは読み耽ってしまうのだ。そして追いかけても追いかけてもネルーダは直前で逃げていて、いなくなったその場所に、オスカルは常に同じその本を見出すだけ。こうしたところはコミカルなサスペンス仕立て。
クライマックスの始まりはネルーダの妻デリア(メルセデス・モラン)とオスカルとの会話だ。そこで彼女は彼にお前はネルーダの書いた物語のなかで端役に過ぎないのだと種明かし(?)されるのだ。
最後のチェイスではガエルのオートバイが故障するし(『モーターサイクル・ダイアリーズ』だ)、母親は娼婦だ、などとガルシア=マルケスみたいなことを言うし、……
なかなか一筋縄ではいかない内容なのだ。
メキシコでの最後の二晩を過ごしたホテルの部屋からの眺め。いわゆるソナ・ロサの朝。