2013年2月19日火曜日

官能を堪能


「堪能」は「かんのう」と読むのだ。「たんのう」は誤用。

さて、読み終えた:

アルベルト・ルイ=サンチェス『空気の名前』斎藤文子訳(白水社、2013)

モガドール(現エッサウィラ)の街で、謎めいた眼差しゆえに周囲の男たちの欲望を掻き立てる女に成長した少女ファトマが、公衆浴場ハンマームで擦れ違った運命のおんなカディヤと、めくるめくような官能の体験をするのだが、カディヤはその後ファトマの前から姿を消す。ファトマは官能の記憶にうっとりとなるあまり、他の男や女たちに愛撫され、口説かれても気づかないほどで、ますます欲望の対象となる。一方カディヤは実は娼婦で、その出自が、最後、街の語り部によって明かされる。その出自がファトマと交差し……

とストーリーを書いていけば何だかこの小説を実に陳腐なものに貶めてしまうようでもどかしい。繊細かつ官能的な散文詩だ。たとえば、こんな感じだ。

 ひとつひとつの伝説は多くの口から作られる。ひとりひとりが自分の舌の形に合わせて伝説を完成させ、欲望の形に合わせて記憶し、あるいは忘れる。(123ページ)

カディヤは目に見えない莢(さや)となり、そのなかで彼女の言葉は他のどこの場所よりもはっきりと響いた。今にも空中にその言葉が書けるほど、手のひらに収まり、口のなかに飛びこんでいくほど。(124ページ。( )内はルビ)

口や舌という有形のものが無形の伝説をつくりだし、その伝説が欲望という無形のものの「形」に合わせられていく。空気が体にまとわりつき、愛撫する、そんな動きを追求した文章だ。言葉による愛撫。

小説のハイライトのひとつは、ファトマとカディヤが出会うハンマームの描写。短い章から成り立つこの小説中、最長の章だ。訳者の斎藤さんもこの描写の印象は強いようだ。

が、ぼくはその描写を読みながら、官能性とは異なる不思議な感覚を得た。以下のパッセージだ。

そのハンマームには部屋が全部で二十五あるといわれていた。一部は有力者専用で、一部は隔離用の部屋だ。皮膚病患者、まだ出血が止まらない宦官、肥満を恥じる者、暴力を抑えられない者、外国人、愛撫を売ることを拒否する者、水が大嫌いで、ただ大勢の人と出会う目的でハンマームに来る者のための特別な空間だった。(60ページ)

うーむ。こうして書き写してみると当初ほどではないが、ぼくはこれを読んでボルヘスを思い出したのだ。フーコーが笑ったという、あの動物の分類。このハンマームにはコブラの部屋なんていうのもあるそうで、ますますぼくの印象は強化される。

そんな印象を抱きながら読むものだから、次のような、あからさまな官能的な一節も、なにやらボルヘス的な分類の妙に思えてくるのだから不思議だ。

 別の部屋では絵は燃え上がる炎であるだけでなく、火への手引きでもあり、その前を通りすぎる者に千通りのテクニックを図解していた。唇を使って亀頭を愛撫する方法、クリトリスのまわりを舌でなぞる方法、順にあるいは同時に吸い込み、持ち上げて噛み、愛撫する方法、互いに身体を離すことなく寝台から落ち、起き上がる方法、執拗な固さを振り払い、早すぎる柔らかさを払いのける方法、涸れた井戸でふたたび飲めるようにする方法、膝まで滴が流れる井戸を枯らす方法。(61ページ)

ぼくは変におもしろがりすぎているだろうか? だって「互いに身体を離すことなく寝台から落ち、起き上がる方法」だぜ! 実に手強い文章なのである。