実は数ある格安カフェチェーン店の中でいちばんぼくの性に合っているのはカフェ・ド・クリエだったりする。そんなわけで、車の12ヶ月点検が仕上がるまで、クリエで仕事やら読書やら。
川村二郎『アレゴリーの織物』(講談社文芸文庫、2012)
ぼくの修士論文のタイトルは『アレゴリー作家カルペンティエール』と言った。1991年1月提出だ。川村のこの原本が出るよりも前だった。自慢しているのではない。これは参照できなかったと言っているだけだ。ただし、当然、彼が共訳者として訳しているベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』は大いに参考にした。というか、ベンヤミンにアレゴリーという概念を教えてもらったのだ。修論に取りかかるころ、さらに、柄谷行人は大江健三郎の小説をアレゴリーの名の下に読み替え、そのさいにポール・ド・マンらの仕事も教えてくれた。アレゴリー表現に対立する形でロマン主義の作家たちに称揚されたシンボルという語が、やがてロマン主義以後、比喩表現全般を表す語に堕してしまったことを説く「時間性の修辞学」などだ。
ともかく、そうした理論家の仕事を参照しながらカルペンティエールはアレゴリーの手法を現代に蘇生させた作家のひとりなのだと説いた。日本では、そんな風にアレゴリー/シンボルの対立を見直す風潮が1989-91くらいにあったように思うのだが、どうしたわけかカルペンティエールを論じる人たちでもこの対立を問題にする人は少ない。不思議なことだと思う。
94年に『失われた足跡』が集英社文庫に入ったとき、解説を書くことになった。その一部にぼく自身の卒論から修論にかけてのそうした仕事を踏まえて、カルペンティエールはアレゴリー作家なのだと書いた。
で、まあ、カルペンティエールはともかくとして、時々、アレゴリー/シンボルのこの対立に触れずにはいられない問題を扱っているはずなのに、これに触れずに妙に「シンボル」の語を濫用して議論を混乱させる人がいる。そういう人にはぜひ読んでいただきたい1冊。これが文庫本になるのだから、すごい。1冊の文庫本が1700円もするのだからもっとすごい。