2012年3月12日月曜日

フエンテスの悲劇、メキシコの悲劇、人間喜劇

まさかこれが翻訳される日が来るなんて、

カルロス・フエンテス『澄みわたる大地』寺尾隆吉訳(現代企画室、2012)

フエンテスの初の長編小説(1958)だ。「澄みわたる大地」La región más transparente というのは、アルフォンソ・レイェスが『アナワクの眺め』でエピグラフを模して書いた「旅人よ、君は空気の最も澄んだ土地に着いたのだ」Viajero: has llegado a la región más transparente del aire からできた、メキシコ市周辺の盆地部を指すときのトピックで、つまりは、「メキシコ市」という名の都市小説なのだ。

小作人の息子から革命を通じてのし上がった実業家フェデリコ・ロブレスをはじめとする、メキシコ市に住まうさまざまな階層の多数の人間たちの過去と現在を、遍在するイスカ・シエンフエゴスという人物が目撃し、聞き手となって展開するという壮大な(バルザック的、などとも言われる)構成。

ただ、何しろ市井の人々の語りを取り入れたり、行を途中で寸断したり、過去と現在とが入り交じったりと、なかなか一筋縄ではいかない、難解な小説。とりわけ初期のフエンテスは翻訳不可能なのだ。

ぼくはこの小説は大学院の学生のころに読み、その後、授業で再読してみようと試みては挫折している。立ち止まって読もうとすると、辛い。一気呵成に読んでこそ読めるたぐいの小説だ。

記憶をたどりながら言うと、この都市小説の都市小説としてのクライマックスのひとつは、今回の邦訳で99ページから始まる「フェデリコ・ロブレス」の章。ラテンアメリカタワーあたりの、アラメダ公園と芸術宮が見下ろせるオフィスから、街並みを見下ろしながらフェデリコがイスカに対して自身の過去を語る、そのパッセージだ。

「そんなこと聞かれても、もう別人も同然だからね、シエンフエゴス」オフィスの青い窓の前に立ったままフェデリコ・ロブレスは言った。両手に目を落とした後で視線を上げ、寒々とした軽い空気のなかに立ち現れた別人の姿をガラスに映し出そうとした。「もう自分があそこの出身だったことすらおぼえていないぐらい
穏やかな小川、そのほとりに立つ小屋、小さな森、周りはとうもろこし畑。次から次へと弟が生まれ、もはや喜びも悲しみもなくなっていた。(略)

鏡にもなるガラス窓という光学装置を通じて、別人としての自分を眺め、都市を自分の育った田舎の農園に変えるフェデリコの、そのセリフ自体が時間の移行に応じて字体を変え、行を変えることによって過去の思い出へと流れ込んでいく。その瞬間だ。こうして過去と現在、田舎と都会が都市の風景の上に重ね書きされていく。みごとな瞬間。