2010年12月29日水曜日

詩的錯乱(delirio)とはこのことだ?

ちょうど暦の一回り、12年前、ぼくはギラン・バレー症候群の疑いがあると言われて入院した。そのとき、忘れないようにこのことの経緯を書きつけようと思って、病院のベッドでノートに書きつけた。その記録が、まるでシュルレアリストたちの自動筆記(オートマティスム)の詩のようだ。今では冷静に思い返すことができるので、書いておく。

不思議なことのみ多かりき。
1998年10/21(水)神田外語、授業中、いささかの疲れを感じる。前の週、発表準備のために、たいした風邪でもないのにサボったのがたたったのか? ーー帰途、電車の席に座って読書した(眠り込んだ)のはもっと直接に作用したろうか。ぼくは風邪をひいてしまった。
翌日、法政を休講し、医者へ。……医者に連れるからといって、必ずしも適材適所に切れるわけでもない。T家の機能、「伝統」の継承ーー支離滅裂になった。26(月)早稲田、27法政、28(水)神田外語を休講にし、29(木)法政へ出講。学生たちに惨々にいたわられる。風邪というよりはその後遺症という感じ。体はいうことをきかず、まっすぐ歩行できず、反動が追い越してゆく。ーー結局、1、2限ほとんど授業をせず、2限、法政側、ぼくとアメリカン・スタイル・ファミリー・ダブルス。を引き出そうなんざ、……あほうが、よほどCono Surについてのお化けは抜き述べね。術が法政はよほど←You Teach は目を覚めるほどこれだけすごい連中Only Only You Only You?  の中に隠していたことは、連鎖はどうなった……連陵寧夢辺中程レイバばかりだぼくは関連多料業のひっぱられるかという柳原孝敦

奇跡とは邂逅だ。ぼくは邂逅を求め街を歩く……偶然というのは1/nの出来事なのだから、n のうちにはいらなければならないのだ。ーーところが、よほど疲れたのか、ぼくの体は絶対必然の雲の中を漂うーー10/30に寝る。翌日はタクショクで学会だったが、K(注:これは実名)に行かないのか、案内しろと、電話でさいそくされる。しかし、異常なまでにつかれていたぼくは、電話を切り、無視……ーー目が覚めた。夕方の鈍い光が重いカーテンの向こうに認められる程度のわかりにくい瞬間 夢。ちくしょう。何時だよ、と呟いたかどうか知らないが、とにかく、そう呟きたくなるほどに、ぼくは直前の記憶と現在の時空の近接性を疑ってはいない。しかし郵便受けにたまった新聞の数は、ぼくに経過した日数を過ちなく告げていた。5枚……5部はあるかに見えたそれらの新聞を、最初から辿り直すでなく最終日付を確認するでなく、コンビニで買った弁当を食いながら、ただ、ばくぜんと数日を眺めるだけだった。この事実が、早稲田と神田外語の授業をすっぽかしたことを意味するという避けがたい認識と共に、新聞の最終の日付が11月4日(水)であることをぼくが確認するとほぼ同時に『ニュース・ステーション』のオープニングが日付を告げた。

11月11日(水)MRI検査をする。テクノロジーの最先端というのは、森の中のようだった。しかし、あんなペースであんな被験者を苦しめるのなら、まだテクノロジーもーー
脳や体の断面、断片をうつすこのMRIというのは、受ける立場から言えば、首を固定され、非常に狭いドームの中に入れられ、きつつきの音を人工音にしたような、工事中の電動ドリルの音でもあるような、そんな音がそのドーム中を走り回る。ぼくらがやるべきは、気が狂わないよう、なるべく頭を殺すこと。

そしてまた、なんと言っても、長い! 小一時間ばかりもそんなことをさせられちゃあ、本当に気が狂いそうだった。
淀川長治 死亡。

どうだろうか? がんばってまだかろうじて論理に踏みとどまっているだろうか? 最初の区切りの前に名前を書いたのは、書類の署名のつもりなのだろうか? そして今思い出したことは、ここに書かれていない10/25には当時の東京都立大であるワークショップに参加し、ひどく具合が悪かったので、自分の発表だけして帰り、10/30には人事関係で面接をひとつこなし、11/7(金)に法政の事務の人の勧めにしたがって診療所に行き、そこから病院に直行と相成り、即入院、その晩に11月11日という日付以前の部分を書いたということだ。この4年後、ぼくはパニック障害に陥る。つまり、このときからの12年間は、ぼくにとっては、失われた12年間なのだ。暦の一巡、ぼくは生きずして生きてきた。