2010年12月31日金曜日

年の瀬に思う/思わない

先日、友人と話していて、これがとてもいいのだと話題に出ていた、Diccionario de americanismos (Asociación de Academias de la Lengua Española / Santillana)。話を聞いた翌日に注文して、もうやってきた。いつもながらのスペイン書房の迅速な対応には助かる。年の瀬だというのに。

残念なのは、今はこの辞書が活躍しそうな仕事でなく、なんでこんなことまで俺がやらねばならないのだ、という種類の仕事に追われてその有用性を充分に確認できない。我が身の不幸を嘆く。環境を呪う。

いろいろな人がブログやツイッターで今年をまとめようとしている。ぼくはそんなこと、できない。それどころではないし、そもそもそんな気はない。どうせ3ヶ月後にまた区切りがやってくるのだし(学年末)。

そういえば、先日観た『人生万歳!』は、いろいろあってくっついたり離れたりした幾組かのカップルが揃って新年を迎えるシーンで終わるのだったが、そこで主人公のラリー・デヴィッドが、「正月の何がめでたい? またひとつ年を取って死に近づくことか?」というようなセリフを吐いていた。

どこかの僧のようじゃないか、と思ったのだが、それが誰の言葉だったのかが思い出せなかった。「門松は墓場への一里塚」。どうせ、一休とか雪舟とか沢庵とか、その種の子供向け読み物の主人公になりそうな人物の言葉としてぼくは認識したに過ぎないはずだが(だからこそ、本当にそれはその人が言ったことなのか、怪しいものだが)、ともかく、この言葉、正月でひとつの年を迎える、いわゆる「数え年」のシステムだから成り立つ考え方だと思っていた。それが、同様の考え方がウディ・アレンの映画の主人公の口から出てきたのだから、驚いたという次第。

ぼくは、ともかく、3月が区切りだと思っているので、まだ年は取らない。