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2023年4月30日日曜日

4月が終わろうとしている

4月はついにブログを一度も更新することなく終わりそうなので、せめて、最後に。




4月に入ってすぐ、書類を整理してこんなふうに書類箱を増やした(その後、もうひとつ追加した)。新しい学期を迎える準備ができた。


桂二葉を3回も聴きに行くことになった。独演会(6日)、二度目は立花蓮二プロデュース「桂二葉チャレンジその参 feat. 喬太郎」(26日)、そして柳亭小痴楽との二人会(28日)。いずれも素晴らしかった。相手を務める喬太郎と小痴楽も最高であった。


友人たちとおいしい食事なども。



そして、ノートのストックがあまりにも多くなったので、授業用にめずらしくこんなノートを作ってみたりしている(学生時代も含めて人生初の試みかも)。


合間にこれ



村上春樹『街とその不確かな壁』(新潮社)。


そのタイトルから、充分に予想され語られてきたように、これはかつて文芸誌『文學界』に発表しながら単行本化されることのなかった「街と、その不確かな壁」の書き換えである。この中篇は5年後に一度、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終わり」のパートに吸収されて消化された。しかし、それとは異なる「もうひとつの対応」(「あとがき」)が必要と考えていて、今回、書き直して発表したもの。


三部構成。第一部はその「世界の終わり」の街、壁に囲まれた街で「私」(今では「私」になった一人称の無名の語り手)が、女性の助けを得ながら図書館で夢読みをする話と、その「街」の由来についての現実世界での話。これが「ハードボイルド・ワンダーランド」とはまったく異なる話だ。十七歳の「ぼく」とひとつ年下の「きみ」との出会いと「きみ」と「街」との関係を綴った内容。


第二部では「世界の終わり」同様、影だけ逃がしてひとり「街」に残ったはずの「私」が、現実世界に戻っており、仕事を辞めて夢に導かれるままに福島の山間の小さな町の図書館長になる話(なるべくいわゆる「ネタバレ」しないように、ストーリーは詳しく書かない)。


そして第三部ではまた「街」に話が戻るのだ。ここも詳しくは書かない。


村上春樹を肯定的に評価するか否定するかを分かつ境界線のひとつは、書き換え(アダプテーション)として彼のテクストを見るか否かにある。ある時期以降村上は古典の書き換えとして小説を書いている。カフカの名をあげてミスリードしながらオイディプスの物語を書き換えたり、騎士団長の名を出してドン・ジョヴァンニを匂わせながらフィッツジェラルドと上田秋成を書き換えたりしている。


今回村上は、自分自身を書き換えてみせた。「世界の終わり」の「街」を書き換えて異なる成り立ちにし(それによって「ハードボイルド・ワンダーランド」とよりも繋がりが明瞭になった)、第二部では村上春樹的要素(田舎町に雪が降る、図書館、奇妙なキャラクター〔漫画的人物/小説の登場人物〕、家族から孤立する子、等々)をふんだんに盛りこみながら物語を綴る。


しかも、村上作品にコンスタントである性描写がない。十七歳の少年は性欲も持ち、相手の少女も「あなたのものになりたい」などと言いつつも彼らが性的に結ばれることはない。第二部の魅力的なコーヒーショップの女性と「私」もセックスすることはない。ジョルジュ・ペレックがEの文字の使用を自ら禁じて『煙滅』を書いたように、今回、村上春樹はセックス・シーンを自らに禁じて自らの作品を書き直している。


その分、「街」と現実世界との繋がり、そこへの行き来のリアリティに精力を注いでいるようだ。それが面白い。そこで利用されているもののひとつがガブリエル・ガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』。さらには第二部終盤での第一部の手紙の引用。そしてその書き換え。たった一行の書き換え。もちろん、この「街」は夢とも無意識とも言える世界なのだが、そのつながりに「コールリッジの花」のような仕掛け(「ある男が夢の中で楽園を通りすぎる。男はその魂がたしかにそこに行ったというしるしに、一本の花を授けられる。男は目を醒まして、手の中にその花を見る」――ボルヘスからの孫引き)も作っている。技巧のかぎりをつくしているのだ。


2022年1月13日木曜日

新しい眼鏡、新しい小説


眼鏡を買い換えたのだ。


だいぶ早い時期(40歳前後)には老眼が始まったものの、それまでずっと視力が1.5できたものだから、眼鏡になれないしかけている自分の格好に違和感があるしで、人前で眼鏡をかけることを極力避けていた。東大に移ったのを機に(つまり50の歳に)遠近両用(少し乱視入り)を日常的にかけることにした。それで、最近、また少し目が悪くなったようなので、買い換えたのだ。


僕は個人的にはボストン・フレームの眼鏡が好きだ。たまらなく好きだ。で、書物を巡るイメージ写真などでは圧倒的にボストン・フレームの眼鏡が使われると認識している。


ところが、残念なことに僕はボストン・フレームが似合わないのだ。むしろ、ウディ・アレンのようなウェリントン・フレームがいいようだ。今回、眼鏡屋の店員も同意していた。ジャン=ポール・ベルモンドは好きで、彼になりたいと思ったことはあるけれども、ウディ・アレンは好きだけれども彼になりたいと思ったことは特にない(とはいえ、気づいたらだいたい同じ格好をしている。チノパンにツイードのジャケット)。だからウェリントン・フレームなど気が進まなかったのだが、ともかく、これがけっきょく落ち着きそうだからしかたがない。このフレームにした。もちろん、ウディ・アレンのような大きな黒縁ではない。軽く薄いやつだ。


そして、イメージ写真を撮ってみたら、でもまあ、これも悪くない。


映っている本はフランソワーズ・サガン『打ちのめされた心は』河野万里子訳、河出書房新社2021事故の結果、退院後、それまでと同様の人間関係を家族と取れなくなった金持ちのボンボンの話なのだが、人間関係の取り結び方がそれまでのようにいかないのは、彼だけの問題ではない。周囲の者、家族のメンバーも、もはや彼を同じように扱うことはできないのだ。妻は離婚を切り出すし、父は息子に自身を取り戻させようと高級娼婦をあてがうし、そして父子して子の妻の母に恋をするし…… そんな一族の感情を扱った小説だ。


ところで、サガンには「ジゴロ」という短篇があった。初老の女性がひいきにしているジゴロに、彼の将来のことを考えて別れを切り出すと、ジゴロが彼女に本当に恋をしているのだと打ち明ける話。この話を僕は最初、読んだときによく分からなかった。けれども、友人が(それは高校時代のことだった)さりげなくそういう話だと言ったので、事後的に了解した次第。そんなことがあったせいか、記憶に残っているのだ。


意外なことに、ドタバタ風のところやら、登場人物が笑っているところやらもあり、これは晩年の新境地なのだとか。



眼鏡をかけた写真。

2021年3月25日木曜日

届いたものたち

右の吸い取り紙が残り一枚になったので、左のものを買った。これは同じ会社なのだが、色とデザインが異なる。会社名の書体も異なるし(Jも消えているが)、depuis 1670 の表示がなくなっている。もちろん、こうした変化は吸い取り紙としての機能には影響してこないのだろうけれども。先日、赤ペンを万年筆でという発想を得たばかりなので、思い立ち、アマゾンにあるかなと思って検索したらこれがあったので、買ってみた次第。


クラリッセ・リスペクトル『星の時』福嶋伸洋訳(河出書房新社、2021) ご恵贈いただいた。リスペクトルはオンビキつきの「リスペクトール」の名で『家族の絆/G・Hの受難』が高橋郁夫訳で集英社の〈ラテンアメリカの文学〉に収められていたが、単行本としてはそれ以来か? 


上の『星の時』の写真の端に映り込んでるのが、これ。泉芳朗『お天道様は逃げてゆく』(黎明社、1934)。〈日本の古本屋〉を通じて手に入れたのだが、「500部限定版」の表記の後に手書きで番号がふってある。これは396番。