2021年3月17日水曜日

ピエタはジアンジアンで詩を詠んだ

泉芳朗(1905-59)は詩人にして政治家。戦後、奄美群島の本土復帰運動が盛り上がったころに名瀬市長を務め、その運動を牽引した人物だったので、復帰の父などとされている。復帰後は、しかし、国政への参加をもくろむも叶わず、必ずしも恵まれたものではなかったようだ。1959年、滞在先の東京で急性肺炎によって客死。


この芳朗に関してはやはりどうしても奄美での復帰運動の前後のことが語られるばかりで、東京での詩人としての活動や、その最期についてはあまり語られていない。僕はひそかに詩人・泉芳朗についてなにがしかの文章を書きたいと思っている(そうは思えないかもしれないが、かつて発表した短篇小説「儀志直始末記」〔『たべるのがおそい 7』、2019〕はその試みの一環でもある)。


親族以外で芳朗に最後に会った人物が詩人・英美子(はなぶさ よしこ1892-1982)。『泉芳朗詩集』(1959 / 南方新社、2013)付録の冊子「泉芳朗の人間と文学」に寄稿した名のある詩人たちの中にはあまり知らないけどまあ頼まれたから書いてやるか、といった感じの者もいなくはないのだが(金子光晴など)、その中で英は慈愛に満ちた感じで芳朗の最後の日々を回想している。一回りほども年上の英が最初に結婚をして子をもうけたのは16歳の時だったから、子を慈しむ母という感じだろうか? 


この英美子というのが、なかなかかっこいい。静岡の名家に生まれ、最初、軍人と結婚して子をもうけたが、自由を希求し離婚、東京の長崎でアパートを経営していわゆる「池袋モンパルナス」の共同体を下支えしながら自身も詩を書いた。池袋モンパルナスというと画家や造形芸術家のみに目が行きがちだが、ここの後期、「土曜会」という詩の集いに師匠・佐藤惣之助とともに参加していた英美子は、昇曙夢や四本忠俊ら郷里の先輩に誘われて参加した芳朗と知り合っている。このころ、美子はK・Iなるプロレタリア詩人との間に子をもうけ、生涯シングル・マザーとしてその子を育てる。子は中林淳眞。ギタリストだ。


その彼女、1980年には詩集『アンドロメダの牧場』がスペイン語訳され、スペインで詩の朗読会を開いている。それが縁でなのか、ニコラス・ギジェンにも会うことになっていたというのだが、ギジェンの死によって叶わなかったのだという。



死後、中林がまとめた英美子『自選詩集 仮装の町』(花神社、1993)の表紙には、スペインでの朗読会の告知の文面が印刷されている。しかもこの本、彼女が渋谷のジアンジアンで開いていたという詩の朗読会(中林のギター演奏つき)から1981年に吹き込まれたCDが付録としてついていた! (左は、評伝+詩の紹介、松田文夫『英美子――もつと、まだうまきものはないか』〔角川学芸出版、2013〕


芳朗が南の海の群島を詠った(「南蛮図」〔「浪 浪 浪らのけはしいせめぎの中へ/ああはるか南へ 消え入る微体」〕)のに対し、第一詩集を出す前に北海道に向かった英は「オホーツクの海の瞳」を詠っている(「オホーツク海 初夏〔はつなつ〕の展望は/千島列島を飛び石伝いに吹き抜ける」)。「うぽぽ」を詠っている(「うぽぽは むかし/千島列島を 飛び石づたいに/やってきた」)。


そしてその縁から、スペインを詠っている。「己を忘れ 明日を忘れて/西へ西へとひた駛〔は〕しる/タホ川の/ウルトラマリンの薔薇の影」(「タホ川のほとり」)


さらには松山に幻想の器官なき町を詠う(表題作「仮装の町」)。


松山の奥の湿地

おんなのいない 

仮装の町があった


死ぬことに飽きてしまった 

 

偽りだけに開く

 

歩行のない 

 

不在の 

 

役に立たない顔も 

捨ててしまった


おんなのいない 

おんなの町にも 

謝肉祭〔カーニバル〕はあった


青褪めた性器の上に 

情熱の夜を灼こうと星々は また

最初のうたを ハミングする