昨日、秘密の仕事を終えてから観てきたのだ。
館内に僕と同世代かもう少し上の人たち(老人と呼ぶには忍びない世代)が多いように感じたのは、平日昼間の早い時間帯だったからという理由だけではあるまい。きっと皆、若い頃、クイーンを聴いていた人々に違いない。僕も、ビートルズよりも先にクイーンを知った世代だ。僕にとっての最大のアイドルではなかったとはいっても、常に聴いていたアーティストであることは間違いない。
物語はフレディ・マーキュリー(ラミ・マレック)がブライアン・メイ(グウィリム・リー)やロジャー・テイラー(ベン・ハーディ)に出会ってクイーンが結成され、「キラー・クイーン」や「ボヘミアン・ラプソディ」、「ウィ・ウィル・ロック・ユー」といった曲ができる過程を小さな山のように挟み、一時期の仲違いを経て、最終的に1985年のライヴ・エイドでのパフォーマンスにいたるまでの話を描いたものだ。
フレディ・マーキュリーはジンバブエで生まれてインドで育った。ゲイであり、公言はしなかったけれども、グラム・ロックの時代の時流に乗って奇抜な衣装をまとい(後にはハードゲイ風のタンクトップをも身につける)、その名も「クイーン」を名乗り、そしてあっという間にエイズによる肺炎で死んだ人間だ。実に興味深いバックグラウンドを持っている。いろいろな焦点の当て方があるだろう。
物語はフレディがメアリー・オースティン(ルーシー・ボイントン)と出会って結婚してからゲイに目覚め、自分の性的アイデンティティを見いだすという流れになっている。こうした描き方、いかにもゲイ(映画ではブライアンはメアリーに「バイセクシュアル」と告白する)の描き方としては問題だ。たとえばBuzFeedのPier Domínguezはだいぶ不満のもよう(リンク)。
この点に関しては、フレディがツアー先でメアリーに電話しながらその晩の相手に目をつける(ドミンゲスも言及している)シーンの最後に、メアリーが電話を切って誰か訪問客にドアを開ける一瞬のカットが気になるところ。明示されている以上にこの二人のカップルの関係について何らかのほのめかしがあるかもしれないというのが、僕の気になるところ。
生まれ育ちと、そこから来る葛藤についての描写も物足りない。冒頭から「パキ」と呼ばれて差別されていることがほのめかされ、家族との葛藤も描かれているのだが、それと音楽活動との関係は掘り下げられていない。たとえばかつてNHKが『世紀を刻んだ歌』というシリーズのドキュメンタリーの一環として「ボヘミアン・ラプソディ殺人事件」というのを放送しているが、その番組の方がよほど深く掘り下げていた。
といった不満は多々あろう。しかし、これは映画なのだ。映画はもっとも映画らしくクイーンを提示したに過ぎない。つまり、クライマックスの1985年7月13日のライヴ・エイドだ。実際のライヴ・エイドの曲目からは一曲少ないものの、実物をかなり忠実に再現してウェンブリー・スタジアムの熱狂を伝えている。ポスターにも「ラスト21分」の感動を謳っているが、あれをあんなふうに再現されると圧倒されるのだ。映画ならではの再現。大ファンというわけではないけれども、そこそこ好きだった往年のファン(僕のような存在)やクイーンのことをよく知らない若い世代の者が、ともに懐かしく思い出す新たな思い出としてのライヴ・エイド。
そして、そんな再現を楽しくしているのが、俳優たちのなりきり具合。フレディだけでなくクイーンのメンバー全員が本物にだいぶ似せて(体格差さえも)作られている。びっくりだ。
映画の前の20世紀フォックスのロゴ(大島紬における「本場大島紬」の認定ロゴみたいなものだな)をみせる時の音楽すらも、ブライアン・メイ(本物)のギターの演奏になっている。