2018年8月6日月曜日

狭苦しさの中でこそ観るべき劇がある


小劇場で劇を観るのは、あまり居心地のいい体験ではない。シートが前後も左右も狭いからだ。フォワイエも狭い(もしくはない)ところも多いから、この炎天下を歩いてきた人々が外で吸収した熱をそのまま持ち込む。人いきれが強くなる。汗かきで、人並みより少しばかり肩幅があるくせに人との接触に敏感なものだから人混みでは肩をすぼめる僕にとっては、不快なことこの上ない。

もちろん、こうした狭苦しい思いが、観劇の体験の一部を形成する必要不可欠な要素だと言うこともできる。ましてや、昨日観に行ったのが関東大震災後の朝鮮人虐殺を扱った作品となれば、ますます必要な要素なのかもしれない。震災後の被災者のような決して充分ではない避難場所での生活を疑似体験しているのだと思えばいいのかもしれない。

その劇というのは、燐光群の『九月、東京の路上で』@下北沢ザ・スズナリだ。タイトルからわかるとおり、加藤直樹の同名の書を基にしている。登場人物たちが加藤の本を読みながら95年前を追体験し、虐殺現場のひとつとなった千歳烏山の神社に鎮魂の椎の木を植えようとする物語だ。

もうひとつのプロットは、先日起こった、現役自衛官による野党議員罵倒事件。それの後日譚(これはフィクションなのだろう)が神社に植樹しようとする人々と交錯し、ラストは我々観客までもが逃げ場のない閉所に追い込まれることになる。震災の避難民の苦しさではない。確実になぶり殺しにされるだろう人の苦しさを味わうことになるのだ。苦しい。辛い。やられた。

千秋楽にぎりぎり観ることができたのだが、僕のような駆け込みが多かったのか、満員であった。


その前日まで、恒例の現代文芸論研究室夏月宿に行っていたのだ@伊豆高原。