柴崎友香『公園へ行かないか? 火曜日に』(新潮社、2018)に興味深い一節がある。
アイオワ大学のIWPに参加した柴崎さんは自分がいちばん英語ができないと思っていたという。
しかし、わたしにはまったく別の言葉に聞こえる人同士でも、皆、支障なさそうに会話していたから、主にはよたしのヒアリング能力と語彙力の問題だった。帰国する間際になってやっと、みんながほかの誰もの話す英語を全て理解しているわけではない、とはわかったのだが。(14)
最後の留保の一文が素晴らしい。
英語に限らず、外国語習得にまつわるいくつかの神話のひとつに、突然訪れる理解の時、というのがある。たとえば現地で、その言語で生活を始めた当初は、周囲の人が何を言っているかぜんぜんわからなかったけれども、あるとき突然、理解できるようになった、というやつだ。これをナイーヴに信じると、漫然と過ごしていれば、そのうち啓示の時のように理解が訪れる、その時人はその外国語を、誰のどんな発話であれ100%理解できるようになる、と思ってしまいかねない。
しかし、実際のところはそんなことはなくて、外国語にはあくまでも理解不能な部分が生じてしまいがちだ。かなり上達した人でも、その言語の母語話者同士の話す、文脈依存の高い、かつ俗語などに満ちた会話に取り残されてしまう時に感じる疎外感を吐露する。そこまでいかずとも、英語やスペイン語のように広域で話されている言語は、たとえば、スペインのスペイン語なら理解できるけれども、キューバのそれはちょっと……なんてことも生じる。発話者によってわかりやすい人とわかりにくい人がいる……
僕の感覚で言えば、読み返したり辞書に当たったりしなくても、一回読んだだけですぐにわかる文章は、発話されてもわかる。そうでないものは部分的にしかわからない。
外国語学習者としては、あくまでも100%理解することを目指すべきなのだろうけれども、一方で、100%は理解できないという諦念を持っていたほうがいい。その何%かの理解できたポイントを出発点として対話を始めればいいのだ。
あらゆる言語が翻訳可能なものとして並列されるべきだというのが多言語主義・多文化主義だ。これは新自由主義との相性がよい(新自由主義と多文化主義の相性についてはいろいろな人が触れているが、最近のものでは久保田竜子『英語教育幻想』〔ちくま新書、2018〕)。これに対抗して、ワルテル・ミニョーロは翻訳可能性を前提としない多言語状況を「間文化性」と呼んでいる。僕らはこうした間文化的な状況下で他者との関係を築かざるを得ない。
こうした、多言語の間のいくつもある階梯を生き、移動する場所が空港であり、国際線の機内である。温又柔『空港時光』(河出書房新社、2018)はそこに目をつけ、台湾―成田間の飛行機に乗る人々の機内や空港でのストーリーをつむいでいる。
この本は、短篇集とエッセイでできていて、写真ではわからないが、短篇集部分とエッセイ部分では紙質が異なり、色も異なっている。段階があるのだ。
下のサルトル戯曲集は、今度、シス・カンパニーによる『出口なし』を観る予定なので、久しぶりに取り出してきたのだ。壁の間で生きる人々の話。というか、壁に挟まれて生きる人々だが。