2018年8月22日水曜日

文学的な、ありまに文学的な


本当は「大人の女も成長する」というタイトルにしようかと思ったのだが(昨日からの続きで)、いささか内容との乖離が過ぎるので、やめた。

カレン・シャフナザーロフ『アンナ・カレーニナ』(ロシア、2017)

試写会で観てきた。

長い小説を映画化する場合、ストーリーが大幅に削られる場合がある。三世代の物語が二世代に縮められたり(『嵐が丘』、『精霊たちの家』、等々)、主要プロットのひとつが削られたりする。それは時間調整のためであったり、そこに監督(や脚本)の特色を出す書き換えの戦略だったりする。

何しろ『アンナ・カレーニナ』だ。何度も映画化されている作品だ。いろいろ工夫は必要だろう。今回はリョーヴィンとキチイの恋のプロットをすっかり削り落とし、アンナとカレーニンおよびヴロンスキーの三角関係のみに絞っている。

のみに絞っているのだが……もうひとつ工夫がある。今回、シャフナザーロフ版『アンナ・カレーニナ』は、日露戦争中の満州戦線でアンナの息子セルゲイとヴロンスキーが出会い、前者が後者から彼とアンナとの恋の顛末を聞くというプロットを付け加えているのだ。プロットというか、それは外枠だ。

小説と映画(や他の物語形式の芸術)を分かつ要素の一つは、伝聞形式にある。と言ってもいいのじゃないかと僕は思っている。『カルメン』はメリメ本人と思われる学者が、スペイン旅行でホセと出会い、そのホセから自分とカルメンの恋の話を聞かされる。ところが、ビゼーのオペラはこうした伝聞の外枠を外して人口に膾炙した。以後の『カルメン』の多くは、このビゼー版のヴァリエーションになる。かろうじてビセンテ・アランダ版(2002)年がその外枠を戻した。

しかるに、今回、シャフナザーロフ版『アンナ・カレーニナ』は、そんな、映画的というよりは小説的伝聞の要素を作って独自性を出している。いわば、文学的なのだ。

そういえばこの映画には副題があって、「ヴロンスキーの物語」という。負け戦たる日露戦争と社交界の恋の対比が強調される。