2017年6月1日木曜日

自分ひとりの部屋

何日か前に平凡社のツイッターがヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』(片山亜紀訳、平凡社ライブラリー)の増刷を伝えていた。

ある授業でこの一部をコピーして読んでくるように言ったら、結構な割合の学生が1冊まるごと持ってきていた。持ってきていたのは、割合ではかなりだとはいっても、数にすれば5人くらいではあるのだが、わずかとはいえ増刷に貢献した気分。

『自分ひとりの部屋』は年収五百ポンドと鍵のかかる部屋、という条件や、もしシェイクスピアに妹がいたらという話とで語られるフェミニスト的テクストだし、英文学からいかに女性が排除されてきたかというその批評の舌鋒も鋭い。けれども、自らの「自分ひとりの部屋」を想定してそこにある本を順番に取り出しながら批評を展開するというその構成もなかなか面白いのだ。書斎を自らの脳の延長という意味でのメディアにしている。有機的な「自分ひとりの部屋」なのだ。

これがぼくの「自分ひとりの部屋」。あまり有機的メディアとは言えない。

これを僕はスペイン語風に「肘掛け椅子」butacaと呼ぶのだが、一般的にはワンシーターのソファと呼ばれているらしい。立って書き仕事する合間にここに座って本を読むとなかなか読書が進む。

この週末に日本ラテンアメリカ学会の大会が東大の駒場キャンパスであり、その実行委員でもある僕は最終日6月4日(日)の締めのシンポジウム「キューバ再考」のディスカッサントとして参加することになっている。そのシンポジウムのパネルの著書や論文などを近頃は読んでいた。

たとえば:

田沼幸子『革命キューバの民族誌――非常な日常を生きる人々』(人文書院、2014)

冷戦終結・ソ連崩壊後の経済危機の時代(「平和時の非常期間」)のキューバの人々をダブルバインドと理解し、その状況を打開するかのようなアイロニーを「ポスト・ユートピアのアイロニー」と呼ぶ。外に出ていく移民たちは太田心平のいわゆる「絶望移民」と捉え、実は「新しい人間」だった彼らのセンティメントを、自らの映画『キューバ・センチメンタル』では撮りたかったのだと説明する。

学会では彼女のこの映画を始めとして何本かの映画も上映される。楽しみ。

ところで、ダブルバインドって、近年の日本の体制順応派もそうだな、などと思う。「日本を悪く言ってはならない」/「○○は日本の国益を損ねているという(まともな)批判に耳を貸してはならない」(○○に入るのは、何でもいい。変数だ。ABでもUSAでも……)という相矛盾する否定命令の間に追い詰められ、そこから抜け出してはならないとされる。


ダブルバインドという用語を提示したグレゴリー・ベイトソンによれば、この状況はスキゾフレニーを引き起こす。