ちょっと前にこういうツイートをした。
大見嵩晴のメールマガジンの文章について呟いたのだ。。
大見の文章はボラーニョ批判なのだが、どうにも的外れだ。まず第一に『野生の探偵たち』を読んで鼻白んだと、というのも「この小説は数十頁で収まる内容を邦訳にして八百頁程度に引き伸ばしたものだったからである」と。第二に、にもかかわらず訳者の柳原〔つまり僕だ〕が「めっぽう面白くて紛れもない傑作なのだけど、何しろ長くて難解なこの小説」と書いているのをあげつらい、ボラーニョの読者は彼の作品を難解だと思っているようだがそうではない、というのが論点。ボラーニョは難解なのではなく、「つまるところ、それは難解さを装った書物であり、頁を捲るという肉体労働を続けるだけで、難解さと対峙したと誤解できる書物なのである。そのような小説を求める読者とは難解を受容している自分に酔いしれるために書物を消費しようとしている読者である」とまで言い切っている。
まず、僕が「難解」だと言ったのはスペイン語を日本語にすることが難解だと言う意味。僕は小説に難解さなど感じない。第二に、「難解さと対峙したと誤解できる書物」とつき合う「自分に酔い痴れる」読者が「書物を消費」しているというが、書物を「消費」するという行為は、長い話を数行の話に縮めてしまうようなもののことだ。ロラン・バルトはそう呼んでそれを「テクストの快楽」の対極に置いた。つまり、「八百頁程度に引き伸ばした」話を「数十頁に収まる内容」だと断言するのが「消費」だ。テクストを消費したがっているのは大見の方ではないのか?
次に僕がいぶかしく思うのは、なぜこの人はボラーニョではなく、その読者を批判するのか、ということだ。読者は好きなように読むものだ。もちろん、消費だけする者もいれば、思いがけない楽しみを引き出す者もいる。読者批判は自分にも返ってくる。天に向かって唾を吐く行為だ。読者を蔑む者は読者から蔑まれる。
こうした大見のような論に勢いを与えているのが寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』で、なるほど、そこではボラーニョの読者はアメリカあたりの批評家に追随して、などと、根拠の怪しいことを書いている。いつもの戯れ言だ。無駄な遠吠えだ。そして彼は短篇や中篇がボラーニョの本領発揮だとした上で〔もちろん、このことには異論はない。中篇も面白い〕、長篇は「象徴体系」に欠ける、などと切り捨てる。
象徴体系? (まさかアレゴリーのことではあるまいな)
いつの時代の話なのだろう? ボラーニョが要求しているのは、そんな使い古しの判断基準などではないのに。ボラーニョの読者はボラーニョに「象徴体系」などという古臭いものなど求めてはいないのだ。書く対象が異なれば手法が異なる。手法が異なればそれを叙述する言語も異なる。批評のタームが一変する。そんな当然の事実を前になまじっかな批評の言葉は空しいだけだ。
長篇を長いとか無駄だと言って切り捨てる手合いには、ボラーニョ自身の長篇内での文章を読ませて差し上げよう。『2666』の第二部「アマルフィターノの部」の結末近く、アマルフィターノが読書家の薬剤師の読む本について感慨を巡らせている。薬剤師が『変身』や『バートルビー』といった短いものを主に読んでいることを知ったアマルフィターノは考えるのだ。
いまや教養豊かな薬剤師さえも、未完の、奔流のごとき大作には、未知なるものへ道を開いてくれる作品には挑もうとしないのだ。彼らは巨匠の完璧な習作を選ぶ。あるいはそれに相当するものを。彼らが見たがっているのは巨匠たちが剣さばきの練習をしているところであって、真の闘いのことを知ろうとはしないのだ。巨匠たちがあの、我々皆を震え上がらせるもの、戦慄させ傷つけ、血と致命傷と悪臭をもたらすものと闘っていることを。(野谷ほか訳p.228)
ボラーニョの長篇の読者は彼が「我々皆を震え上がらせるもの、戦慄させ傷つけ、血と致命傷と悪臭をもたらすものと闘っている」その姿を見たいのだ。なんらかの「象徴体系」に収まる行儀良さでもなければ、「数十頁に収まる」ようなまとめではない。
たとえば『2666』が読者に呼びかけているのは、サンタ・テレサという架空の街、それを取り囲む砂漠にやって来いということだ(その意味で『野生の探偵たち』も半ば同じだ)。砂漠を見て、砂漠を感じて、そこでアルチンボルディという作家がどこにいるのかわからないけれども、彼が近くにいることを感じることだ。「批評家の部」のペルチエがそう感じたように。植物の墓場である砂漠地帯で累々と死屍が積み重ねられている終末の光景を眺めることだ。文字どおり「血と致命傷と悪臭をもたらすもの」が横たわっている様子だ。ボラーニョに魅入られた読者たちが欲しているのは、そんな終末の様相を呈する場所でボラーニョがいったい何を見、何を感じているのかを推測することなのだ。ボラーニョとともに見た砂漠の光景を描いてみることなのだ。
ボラーニョのランボーへの傾倒は明らかだ。『野生の探偵たち』の中心人物のひとりベラーノにアルトゥーロという名を冠し、その彼をアフリカに死なせている。自らの分身をランボーに同定した。ランボーは詩を棄てて砂漠に消えたのだ。詩は砂漠に消える。『野生の探偵たち』の第三部でランボーの話が出てくるのは偶然ではない。ベラーノはソノラ砂漠でランボーを感じているのだ。砂漠とは詩人(場合によっては詩を棄てた詩人)が感じられる場所だ。
一方で、ボラーニョの北はボルヘスの南と同じだ、というのような話を僕は授業でしたのだった。北が南であるならば、突き詰めていけば砂漠はパタゴニアの凍ってやせ細った台地と等価なのだとも。ブルース・チャトウィンがそこに伝説の続きの死(サンダンス・キッドだ)と詩(詩についてのトリビア)を見出したように、ボラーニョも伝説の続きの死(セサレア・ティナヘーロ)と詩(詩についてのトリビア)を見出している(『野生の探偵たち』の場合)。おびただしい数の屍の果てに詩を見出している。
うむ。2017年は少し砂漠を旅してこよう。