博士号を取ってみようと思ったのだ。
いや、もう持ってるし……
副題に「と指導教官のための」と謳っている。国立大学が法人化されて以来、「教官」とは呼ばないはずだが、まあそれはどうでもいい。教員だって色々悩んでいるのだ。
プライバシーに属するので細かくは言わないが、なかなか修士論文が書けない学生がいたりして、つらつらと思い返すに、僕は修論や、ましてや博士論文の指導は、ことごとくうまく行っていないのじゃないかと反省するに至った。もう少しシステマティックに指導するということを考えなければいけないのではないか、と。
僕自身は、あまり教師に介入して欲しくないと思っていたので、自分で好きなように修論を書き、博士論文を書いた。先生たちもそれを許容してくれた。そもそも修士論文提出の年、本来の指導教授であるべき人はサバティカルでスペインにいた。
ひるがえって教師の立場に立つと、時々、かつての僕同様、介入を望まない学生がいると感じる。その人が介入を必要としないほど優秀だと思えば、僕だって介入しない。だが、そうではない(学生が優秀ではないという意味〔ばかり〕でなく、介入を必要としている人がいるという意味)場合、けっこう難しいのだ。そもそも僕は学生たちに言うことを聞いてもらえないタイプだものな……で、色々と参考にしたくて、この本などを読んでみた次第。
(読み返して反省。本書にも書いてあるように、論文完成は「優秀」さの問題ではない。この「優秀」神話をまずは取り払わなければという話でもあった。たぶん、僕はその神話に取り憑かれて取り違えていたのかも)
イギリスで書かれた本なので、日本とはシステムの違いがある。博士論文として提出されたものが修士論文としてグレードを下げて認定されるとか、修士課程から博士課程へは進学ではなく切り替えであるとか。制度の違いはイギリス大学(院)事情として読めばそれはそれで楽しい。
そしてまた、文章の端々から感じることは、イギリスの大学だってそんなに遠い昔ではないころまで、「古き良き」(本当に良いかどうかは別として)大学の雰囲気を享受していたのであり、こうした博士論文の書き方やその指導のマニュアルが編まれるということは、上から下から、制度化や研究(指導法研究)が行われてきた結果なのだということがわかる。「学部一流大学院三流」(今野浩)たる日本に欠けるのはこれなのかもしれない。大学院の指導法・カリキュラムの確立。もちろん、各大学、多大な努力が払われていることは知っているのだが。
学生には107-108ページをともかく読め、と言いたい。自分に対しては、229ページの項目。
「フィードバックに批判を含む権利」を得よう (略)指導教官がこの権利を持っていることを定期的に学生に知らしめなければならない。
だから、俺、これが一番苦手なんだってば。
……大変だなあ。