ぼくは常々ベニート・ペレス=ガルドスのあまり長くない小説(『フォルトゥナータとハシンタ』のように長大なものもあるので)はとても面白いし、もっとたくさん訳されて然るべきではないかと思っている。だからぼく自身、ブニュエルの映画の原作になった『トリスターナ』を訳してもいる(編集者との間に生じた誤解というか理解不足から、日の目を見ないでいるけれども)。だから、『ドニャ・ペルフェクタ』が出たことは自分のことのように嬉しい。
ベニート・ペレス=ガルドス『ドニャ・ペルフェクタ――完璧な婦人』大楠栄三訳(現代企画室、2015)
これがめっぽう面白いのだ。マドリードからオルバホッサという架空の田舎町にホセ・レイ(またはヘベ・レイ)という若い土木技師がやって来る。父の妹ドニャ・ペルフェクタの娘ロサリオを嫁にするためにだ。親同士がそう取り決めたのだ。
ところが、ペルフェクタの家に出入りし、彼女たちを精神的に指導する聴罪司祭イノセンシオの吹っかける信仰についての議論に、つい調子に乗って皮肉な科学者の立場から答えてしまったところからボタンの掛け違いが始まり、田舎町でペペ・レイは村八分に追い詰められる。勤めている役所からまで免職される始末。ロサリオはどうやらぺぺを愛してくれているようなので、それを頼りに、彼はいささかの意趣返しを目論む。やがて明らかになるのは、ペルフェクタの本心とイノセンシオの野心(姪の息子ハシントをロサリオと……)。等々、等々。
「一見するといい人間だが、実はそうではない人々」(315ページ)が、とりわけ田舎者たちが、苛立たしいまでに自分勝手な論理を楯に行き違い、憎み合い、権謀術数を巡らせ……これだけ読者を不快にする物語はメロドラマと呼ぶ以外にはない。そしてメロドラマは面白い。
リアリズムの大家とされるガルドスだけれども、彼の短めの長編が面白いと言ったのは、19世紀リアリズムという通念を裏切るようなところがあるからだ。だいたい、Doña Perfectaという名前自体(邦訳では副題に示してあるが)、「完璧」なのだし、視点・視覚の操作も面白い。最後は物語の説明を手紙に任せてしまったりもするし、飽きさせない趣向が凝らしてある。
そんな趣向に加え、訳者・大楠栄三は登場人物の言い換え(ホセ・レイが「技師」とか「数学者」とか「甥」とか言い換えられるわけだが、その言い換え)にルビを施して固有名を明らかにし、読者をわかりやすく導く。賛否両論は出るかもしれないが、面白い試みではある。