2014年4月10日木曜日

地球の形

『神奈川大学評論』77号「特集 ラテンアメリカ――グローバル化と新政治地図」が届いた。

ここに「共同体から個人へ――ラテンアメリカ文学の五〇年」という小論を寄せている。特集の副題がこういうものだから、それにそぐうよう、現在ではブームの時代とはまったくことなるタームで語るべき作品が書かれていること、そしてまたここから振り返れば、例えばガルシア=マルケスだってずいぶん違った読み方ができるはずであること、などを述べた。

ぼくはともかく、「ラテンアメリカ文学」なんてものを特殊語彙で語って何だか良く知らないわけのわからない場所のちんぷんかんぷんな文学、という隔離された位置に置きたくはない。そういうことだ。

ここには様々な分野からラテンアメリカを論じる論文が載っているばかりでなく、ニカノール・パラの詩2編「エルキのキリストの説教と教えXXIV」、「想像上の男」(南映子訳)カルロス・フエンテスの短編「二つのアメリカ」(石井登訳)が掲載されている。それぞれの作品も、訳者の解説も面白い。素晴らしい。

フエンテスの短編はコロンブスと日本のノムラさんを中心とするパラダイスINCの面々がカリブで出会うというもの。コロンブスは日本も中国も目指しておらず、実は楽園にたどり着くことこそが目標だった、のではないか、と自分で疑っている、という点と、彼がスペインを追放されたユダヤ人である(サルバドール・デ・マダリアーガの唱えた説)という点において、彼のアメリカ到着の業績をエディプス・コンプレックス的回路に接続する。

コロンブスは第三回の航海でベネズエラのパリア半島とトリニダード島の間の海峡にまで達している。そこで海水に淡水が混ざり込んでいることを観測し、その先に大河のある大陸が存在することに気づく。そしてそこを「地上の楽園」と呼び、近づくことを拒否する。エドムンド・オゴルマンによればそれは、アジアに来るつもりだったコロンブスが、当時の地図上では大陸のあってはならない場所に大陸を認めるわけにはいかず、そこに探索に行かずにすむための方便として「楽園」の語を持ち出してきたのだという。人間の近づいてはならない場所として、近づかなかったのだ。

その際にコロンブスは、プトレマイオスなど古今の碩学の分析を引用し、地球が「女の乳房」のような形で、乳首のように盛り上がった場所に楽園がある、という世界観を展開した。それは第三回の航海の記録に書いてあるとおりだ。フエンテスは、幼くして母の乳を吸い尽くし、乳房から引き剥がされ、乳母の乳房に吸い付かなければならなかったコロンブスの「官能のメタファー」の帰結として提示している。

すごいなあ。官能のメタファー。アメリカの発見とクリトリスの発見を結びつけたフェデリコ・アンダーシ『解剖学者』(平田渡訳、角川書店、2003)みたいだ。

ちなみに、ぼくはフエンテスの本を読んでオゴルマン『アメリカは発明された』(青木芳夫訳、日本経済評論社、1999)の存在を知った。つまりフエンテスは当然、オゴルマンの分析は知っていた。その上で、説話上の要請から、コロンブスがパラダイスを目指していたのだ、とする仮説を紡いでいるのだ。


うん。面白い。というか、とてもフエンテス的、というか……