昨日、3月31日にはふたつの終わりがあった。
まずはフジテレビの昼の長寿番組「笑っていいとも」。これが最終回だった。誰かがツイートしていたので、ぼくは何気なしにツイートした。一度も通しで見たことはないと思う、と。けれども、これが始まったときのことを鮮明に記憶しているのは、もうひとつの「いいとも」と同時期だったからだ、と。こう書いたのだ。
村上春樹『羊をめぐる冒険』が1982年10月発行。(『群像』8月号掲載)で、『笑っていいとも』が1982年10月放送開始。1982年秋、ぼくは「いいとも」という表現をとても新鮮に受けとめた。言うんだよ、村上作品の人物たちが、「いいとも」と。
どういうわけかこれをリツイートしたりお気に入りに入れたりした人が多く、さらには、『羊をめぐる冒険』の当該箇所を引用して反応した人もいたらしい。盛田隆二さんがさらにその反応を紹介してくださったりした。
ぼくが「いいとも」を新鮮に感じた理由はさらにあって、何しろ「よかど」の国での3年を終え、「いっちゃっと」の国に戻っていたからでもある。「いいとも」なんて言い回し、聞いたことがなかったのだ。TVのない国からTVのある国に戻っていたからでもある。かつてラジオを聞きながら機を織っていたはずの母がTVをつけっぱなしにして仕事をするようになっていた。昼どきにTVを見るなんてことはますます不思議な話だったのだ。
ふたつめの終わりは、同僚の退職。柴田元幸さんが3月をもって東京大学を退職された。その記念のイベントとパーティーに行ってきたのだ。(写真はあくまでも始まる前のイベント会場。ここがほぼ満席であった)
イベントは「世界文学朗読会」と題し、関係者など10人が自分のお気に入りの作品(の一部)を朗読する、というもの。ぼくはボラーニョ『野生の探偵たち』第二部23章からフリオ・マルティネス=モラーレスの証言を読んだ。終わって何人かの方から「ボラーニョ、いいね」との声をいただいた。ありがたい。やはりツイッターでの話だが、「が、『朗読、いいね』の声は聞かずじまい」とつぶやいた。その瞬間、思ったのだ、そして書いたのだ「朗読は翻訳に似ている」と。
ぼくはこれまで名前が出たのも出ていないのも、出版されたのもされていないのも含めると何千ページ訳したか知らないが、その中で最も意味不明な2ページ半を読む、として読んだのだった。ナンセンスな文章の積み重ねの中からポエジーが立ちあがる、そんな感じの文章だ。翻訳の手腕が問われるところ。朗読の手腕が問われるところ。訳したのはぼく。朗読したのはぼく。しかして、目指すべきは、ボラーニョ、いいね、のひとこと。
続くパーティーでは司会進行役を務めた。
2次会では柴田元幸さんが東京大学教授でなくなった瞬間に立ち会った。つまり、12時を回る瞬間、ということ。