ぼくも日ごろ、小説を訳したり授業で読んだりしているわけだが、ときどき、どうにも読めない小説というのがある。スペイン語だと読めるのだけど、翻訳だと読めないとか、その逆とか、……あるいは読んだのだけどすっかり忘れてしまったものとか……だから、
阿部公彦『小説的思考のススメ――「気になる部分」だらけの日本文学』、東京大学出版会、2012
に、「小説とは本来、読めないものなのです」(iiページ。下線は原文の傍点)なんてあると、ついついそう言ってもらえると助かる! と思って手に取ってしまうのだ。「小説を手に取って迷ったりひるんだりしても、それはあなたのせいではありません。小説のせいです」と言われれば、ますます勇気づけられる。勇気づけられたところで、「小説には読み方がある」(viii)と囁かれたら、買ってしまうでしょ?
が、買ってみて続きを読むと、「小説のルールというのはたとえば語学のルールのように暗記すればいいというものではありません。作品によって、どのあたりを読むべきかの勘所は異なる。私たちがするのは、ルールを探しながら読むということです」(viii)と書かれている。なーんだ、やっぱりそうだったのか。ちっ、だまされたぜ。
まあ、小説という壮大な嘘にだまされるのが好きなぼくとしては、このくらいのだまされ方では腹は立たないわけだが。そして、第1章、太宰治の『斜陽』を読む段に入っていくと、「まず何よりも気をつけたいのは、文章を一字一句読むということです」(5)と明言されていて、どうやらこれが唯一、公式化しうるルールのようだと気づくわけだ。一字一句読む。「簡単なようですが、これが意外と難しいのです」(6)。そうなのだよな。日本語訳を読んでもうまく読めないけれども、スペイン語だと読める、なんてことがあるのは、スペイン語だと一字一句読まざるを得ないからなのだ。そしてまた時には、とりわけストーリーに没入しているときには、ちゃんと読んでなかったりするものな。
で、阿部さんはテクストを「一字一句読」みながら、つまり、テクストの分析をしながら、太宰の文体が表現する語り手=主人公和子の貴族性ゆえの読みやすさを解説する。そして、その余裕が破綻する瞬間を捉えて刺激的だ。「心地よさをつくりあげたうえでそれを破ること。それを壊すこと。それがなければ小説は小説にはならない」(18)とまで言われた瞬間には、目から鱗が落ちるという次第。
この太宰から始まって漱石の『明暗』会話と地の文の齟齬を分析、辻原登、よしもとばなな、絲山秋子、吉田修一、志賀直哉、佐伯一麦、大江健三郎、古井由吉、小島信夫を読んでいくのだった。「大江にとっての真実は、定点としてそれと指差されるようなものではなくて、いつどこから語りかけてくるかわからないような不意打ちの訪れとしてとらえられています」(169)なんて指摘には、それこそ不意打ちされたものだ。