2012年8月17日金曜日

狂気の形


写真前面は、グスタフ・ルネ・ホッケ『文学におけるマニエリスム』種村季弘訳、平凡社ライブラリー、2012

だが、その奥にある小説を読んだという話。

オラシオ・カステジャーノス・モヤ『無分別』細野豊訳、白水社、2012

カステジャーノス、2作目の翻訳だ。

長く続いた内戦が先住民虐殺に転じたグワテマラとおぼしき場所(明記はされない)で、その記録文書の千五百枚もの原稿を校閲、校正する仕事を引き受けた「わたし」が、見知らぬその街で知り合った若い女と関係を持とうとしてみたり、その思いを遂げたり、謝礼の未払いに怒ったりしているうちに被害妄想を抱き、やがて精神を病んでいく(ととられる)過程。

150ページ強の短い小説なのだが、報告書原稿に書かれている惨たらしい暴力の記述を仲立ちとして、「わたし」の妄想や現実の行為(ファティマという女性とのセックス)が眺められ、狂気を呈していくその進行のしかたは面白い。「おれの精神は正常ではない、と書かれた文章にわたしは黄色いマーカーで線を引き、手帳に書き写しさえした」(7ページ。太字は原文)という冒頭が活きている。

ロドリゴ・レイ=ロサが来日して東大の駒場で講演したときに、やはりグワテマラの軍による弾圧の記録を整理しているとして、それを読み上げていった。質疑応答の段になって、若い女性が、「わたしはそんなものを読み上げられて不快に感じます」とのコメントを言った。そのことを思い出した。

そのときは、貴重な質疑応答の時間を、そんな的外れなコメントで潰すその女性を、愚かだと思いもしたが、そうではないのだ。人はたやすくテクスト内の行為の当事者とそれを書く(語る)者、そしてあまつさえそれを読む者とを混同してしまうということの格好の証左だったのだ、彼女は。とりわけテクストに書かれたものが耐えがたい現実であった場合、人は語り手を忘れ、場合によっては読者を忘れる。人を殺したのはレイ=ロサではない。それを書き残したのもレイ=ロサではない。それを読み上げたのがレイ=ロサだ。この三者には三者それぞれの思惑があって、異なる行為をしている。でも読み上げられたのが聞くに堪えない凄惨な暴力の証言であった場合、それを読み上げた者こそが当事者に思えることがある。

カステジャーノスの小説の「わたし」は、こうして暴力に巻き込まれる当事者を自認するにいたったということだろう。これは『ドン・キホーテ』の狂気なのだ。