2012年7月1日日曜日

6月もエントリーは8記事だった


ウンベルト・エコ『論文作法:調査・研究・執筆の技術と手順』谷口勇訳、而立書房、1991

なんてのを、必要性があってぱらぱらと捲ってみるのだが(もう何度目だろう)、これについて、2つばかり。

まず、傍系の、非本質的なこと。谷口勇訳のウンベルト・エーコはすべて「エコ」という表記になっている。オンビキ(ー)がない。使用するインクの量が少しだけ少なくて済む(エコ?)というわけだ。他のエーコは「エーコ」とオンビキ入り。

まあ「エコ」/「エーコ」の違いくらい分かっているからいいけれども、近年では検索エンジンでの検索結果に影響しないか心配だ。でも逆に、最近はそれくらいの揺らぎは認めて拾ってくれるのかもしれない。時々、間違いでない表記も、気を使って訂正してくれたりするものな。

ぼくも「カルペンティエル」や「コルタサル」が主流の昨今でも「カルペンティエール」「コルターサル」とやっているのだから、人のことは言えないのだが、趨勢に反した表記を主張し続ける人の性格が忍ばれる。あ、ただし、ぼくはオンビキを省く趨勢に反してオンビキを書いているのだが、谷口さんはオンビキを入れる趨勢に反してオンビキを省いているから、向きは逆だ。

第二点。まあぼく自身の目下の感心に影響されるのだろうが、時々、とても警句的な文章に出くわす。そして膝を打つ。

 (略)それというのも、学位志願者が、神の問題とか、自由の定義の問題とかを僅か数ページのスペースで解決できるものと思い込むからである。私の経験からいえば、この種のテーマを選んだ学生はほとんど決まって、学問的研究によりも抒情詩に近い論文、評価に値する内的組織づけもない、ごく短い論文を書くのが常である。
 そして、よくあることだが、学位志願者に対して、「君の論述はあまりに個性化されており、一般的、略式であり、歴史記述的な検証も引用も欠如しているね」と異議を述べると、「ぼくの真意が理解してもらえなかったのです。ぼくの論文は、ほかにごろごろ見かける陳腐な編纂の練習みたいなものよりもはるかにましですよ」との応答がかえってくるものである。
 なるほど、そういうこともあるかもしれないが、またしても経験の教えるところによれば、こういう受け答えをする学位志願者の考えは決まって曖昧で、学問上の謙虚さに欠け、伝達能力が乏しいのが常である。(18-19)

こうした一節を読んで、耳が痛い思いをしたのは、修士論文を書いている最中のぼくだったとしてもおかしくないわけだ。あるいは、てやんでえ、俺はそうではないや、と思ったか? で、今では、むしろエーコの側に立って、まことにそのとおりだ、と唸っている次第。