2012年4月22日日曜日

知性についてさらにもう少し考えた週末

偶然、こんなのを読んだ。(「こんなの」にリンク)長崎大学水産学部の天野雅男さんがご自分のサイトの一部に、合衆国の研究者の書いた大学院生への指南をまとめて掲載したもの。

よせばいいのに、こんなのを読んでいると、むらむらと創作意欲(創作、か?)が湧いてくる。上のテクストは主に理科系の視点だし、根本は合衆国の大学の文脈に沿うものだし、ここはひとつ、文化系、とりわけ人文科学の、ただもっぱら本を読むことが研究であるという人々に向けて:

1. 君は1日最低でも5時間を読書に、3時間を執筆に費やせますか? 

その覚悟があるかではありません。その意志があるかではありません。実際に費やせるか、あるいはもう費やしているか? です。できる者は歓迎です。明日にでも私の研究室に進学の相談に来てください。できない者は心を入れ替えてください。その覚悟をするか、でなければ研究者になるのをあきらめるか。

ネルソン・オソリオというラテンアメリカ研究者は教え子のミルラ・アルシビアデスに訊いたといいます。「あなたは1日何時間本を読みますか? 10時間ですか? 15時間ですか?」——これは一見、私の要求よりも多いように思われます。実際、多いのでしょう。が、オソリオはひとつ重要なことを忘れています。私たちの仕事は読むことだけでなく、書くことも含むということです。だから、彼の設問の「本を読む」ということが、確実にその3分の1くらいは書くことを意味しているのなら、私もオソリオに大いに見習いたいと思います。

私が読書5時間、執筆3時間と書いたのは、つまり、サラリーマンのように働きなさい、という意味です(どうせ修士論文や博士論文、本の執筆をする際には2倍の16時間、20時間と机に就くことを余儀なくされる。そうでないときでも最低8時間、という意味)。君たちよりも一足先に会社員になった人たちがオフィスで仕事をしているのと同じていどには読書と執筆に費やしなさい。つまり、君のやることは仕事なのです。君は労働をするのです。その覚悟を持ってください。単純労働でないぶんだけ、救われると思ってください。労働だということは……

2. 大学院に進学したら、もうその道のプロだとの自覚を持ってください。たとえば、外国語の本を輪読する授業などで、ろくに調べ物もせずに、教師に解決を求めるのはやめなさい。教師が学生よりも外国語運用能力に長けているとは限らないのですから。ましてや、信用できるかどうか定かでない他人の知性に自分の知性を委ねるなどという愚はやめなさい。

3. 私たちの仕事は読むことが基本ですが、中心は書くことにあります。発想の転換をしてください。本を読むことが勉強なのではなく、書くことが仕事なのです。読むことは書くことに仕える行為だと思うくらいの方がいいでしょう。だから、……

4. 大学院に進学したその日から、何らかの文章をどこかに発表することに心を砕いてください。学術論文なら、それに超したことはないのですが、どんな些細なものでもかまいません、書き、発表することです。学会会報の埋め草の書評欄でも何でも。何か依頼されて断るなんてことは、修士論文や博士論文が大詰めのときか、将来よほどの売れっ子になって本当に時間がないときだけに許される贅沢です。依頼があったら断らず、なくても常に機を窺っていてください。

5. 学術雑誌に投稿したら、たいていの場合、「訂正の上、掲載可」という判定になるでしょう。書き直せと言われた箇所を書き直すことをためらわないでください。

学会誌の審査の場合、よほどあくどい査読者でないかぎり、大抵は形式や手続き、論文としてのクリシェの不備、論理の不明確な箇所などを指摘するものです。君の論文の根本の主張に対して論争を吹っかけているわけではありません。書き直しを渋るのは、単なる知的怠惰です。書いたものへのこだわりなどではありません。君の独自性は書き直しを主張された箇所などにはありません。君が書き直しを示唆されたとすれば、それは単に君の推敲が足りなかっただけのことです。そんな箇所に対しては、ふたつ3つと次々に対案を出せるようにした方がプロらしいというものです。

少し話しをずらせば、こういうことです。私は上で3時間執筆をしろといいましたが、執筆の時間の大半は書き直しに費やされるものです。若いうちは特にそうです。

6. 学術論文の意味を間違えないでください。人文科学の学術論文は歴史研究(文学史、美術史、作家の伝記研究、等々)か解釈の作業に大別されます。解釈であっても、歴史の一部を形成することは間違いありません。つまり、論じる対象に対して、過去、誰が何を言ったかを踏まえることが必要になってきます。この予備作業を当然の前提としてください。多くの場合、不毛な作業ですが、これをおろそかにすると、後で君自身にツケが回ってきます。

7. 自分の論じる対象以外でも、周辺分野に関することなら、なんでもすべて読むつもりでいてください……といっても実際には何もかもすべてを読むことはできないのだから、せめて数行でもいいので目を通し、誰が何についてどんな立場で語っているのかくらいは知るように努めてください。後で君の興味が拡大したときや、あるいは晴れて大学の教師になって教壇に立ったときに、いつでも引き出せるようにしておいてください。これがとても役に立ちます。

8. 周囲の研究者(教師や仲間)に会った時には、だから、全部読んでいなくてもいいから、その人の最近の仕事の話に水を向けてください。論文や本に語られていなかった情報も引き出せるかもしれません。10ページの文章を書いたとすれば、その背後にはもう10ページ、あるいは20ページ分の、そこには入れられなかった原稿が隠れているはずだからです。

9. 友人知人の最近の研究にばかり水を向ける必要はないのですが、少なくとも仲間たちとは、こうして情報を交換して情熱を分かち合ってください。酒飲んでくだ巻いて愚痴を言い合っている、なんてつき合いは避けましょう。もちろん、たまには愚痴もいいのですが、そればかりではやがて辛くなります。

私たち研究者というのは、人文系の研究者というのは、知に取り憑かれた存在です。愚痴は愚かで病んだ知です。健全な方を向きましょう。

……うーむ。こう書いてくると、これ自体がぼくの愚痴みたいか? まさか! ぼくの学生は優れた方ばかりなので、この指南が愚痴の裏返しのはずはない。むしろ、経験則、というのかな……?

まあ、むしろ、自分自身への戒め、というべきかな? いまだに推敲なんか、指摘されてはじめて泣きながらやっているものな……