われわれ大学教員というのは、退職する際には最終講義というのを行い、そこでは多くの方がご自分の半生を振り返ったりするものだが、昨年だか一昨年だかに晴れて神戸市外国語大学学長の任を終えた木村センセイ、最終講義の書籍版とでも言えばいいだろうか。幼少のころからの本とのつき合い、文学との出会い、外国文学との出会いなどから語り起こし、自らの翻訳家人生を振り返っている。
われわれ同業者からしてみれば、鼓直とか高橋正武といった、木村にとっての先生たちとのつき合いの話しなどは興味深い(高橋正武が『西和小辞典』を手に自慢し、その後、「一生かかってこれ一冊なんだよね」とつぶやいた話〔33〕とか)。木村ファンならば、彼の個人的なエピソードなども嬉しいだろう(神戸市外語大なら新制大学で、新制大学といえば旧制高校だからと、角帽、詰め襟、下駄履きで、マントこそしないもののバンカラのスタイルで大学に通った話し〔28-29ss〕とか、机の前に落ち着いて座る時間の短さから、奥様にウルトラマンと呼ばれていること〔57〕とか)。そしてまた、後に稀代の名翻訳家と称えられることになる木村も、最初はひどくまずい訳をし、だいぶ悪戦苦闘した話〔64-70〕などは、若い人には励みになるだろうというもの。
しかしなんと言ってもこの本の真骨頂は、翻訳家・木村榮一の翻訳術のコツみたいなもの(普遍的な理論などはないと言っているので、あくまでも彼の流儀だ)が開陳される最後の6章くらいだろう。村上春樹や外山滋比古などを引きながら「名詞文脈」について述べる木村はオクタビオ・パスから、次の一文を引く。
"De la imitación de la naturaleza a su destrucción": tal podría ser el título de una historia del arte occidental. (「自然の模倣からその破壊へ」、もし西欧の芸術史にタイトルをつけるとすればこんな風になるだろう。)(153)
そしてこの後 " "内の「タイトル」にある2つの名詞の関係(imitación/naturalezaの関係、およびdestrucción / naturaleza)などの話を展開する。名詞のうちひとつは動詞化すべきではないか、とか、これらが動詞と主語の関係になるか、目的語の関係になるか、とか。ふむふむ。そうそう。よく突き当たる問題なのだよ、と思う。
が、同時に、待てよ、とも思う。ぼくにとっては後半が気になる。 "tal podría ser el título" だ。この過去未来形だ。「もし……タイトルをつけるとすればこんな風になるだろう」だ。いつかも書いた条件法の用法。意外なほど多くのものが見落としてしまうこの用法のことはすんなりクリアされているのだ。できればここも扱って欲しかったな。
「visión や verについて考えているうちに、ヨーロッパ人はおそらくぼくたちよりも映像的、というか視覚的な喚起力にすぐれているのではないだろうかと考えるようになった」(121)という第12章「ヴィジョンとイマジネーション」の章は、とりわけ、別の角度から議論に上せたいところではあるが、それはあくまで、「別の角度」の話。
今日はここまで。明日の準備をしなきゃ。