酔っ払って桜の木に吐いている者を見て、そういえば、サルトルの『嘔吐』を思い出す。
……というのは嘘。誰も吐いてはいなかった。ある授業に備えて芥川の「鼻」とゴーゴリの「鼻」、そしてサルトルの『嘔吐』(新訳 鈴木道彦訳、人文書院、2010)などを読み返したりしていた。
『嘔吐』など、高校生の時だか、もう卒業した後だかに読んで以来で、アントワーヌ・ロカンタンがとらわれた〈吐き気〉から解放される瞬間が音楽によってもたらされることなど、ほとんど忘れてしまっていたのだが、あるページを読んだ瞬間、いろいろなことが思い出された。ぼくに過去の記憶を取り戻させたページとは何かというと:
火曜日
書くことは何もない。存在した。(171)
ぼくがかつて読んだのは白井訳だったので、あるいは少し言葉遣いが違ったかもしれないが(「実存した」とか……?)、ともかく、ぼくはこの一文がえらく気に入って、似たようなことを自分の日記に書いたりしていたはずだ。そんなただ存在しただけの日々をまざまざとぼくは思い出していたのだった。