もうすぐ学期が終わろうとしているが、「後は流して……」という感じにはいかないのがこの仕事の辛いところ。試験やらその採点やらと、仕事は尽きない。加えて来年度の準備もあるのだから、仕事は尽きない。翻訳やら何やら、……仕事は尽きない。
1月はただでさえ、大変な月だ。今年の1月はさらに大変だった。
今日、散歩から戻ったところで、右手と左手を間違え、捨ててはならないものをゴミ箱に放り、単なるゴミを宝箱にしまった。
疲れているんだな、……
と普通なら思うところ。ところが今日はロベルト・ボラーニョのことを思い出した。ボラーニョはあるエッセイで、自分は左利きなので、子ども時代、サッカーなどで左にボールを出せ、などという指示を受けると、利き手の側ではない方向(つまり、右、多くのひとにとっては左だが)に出せばいいのか、それとも利き手の方向に出せばいいのか迷っていたと書いている。
まったく、サッカーがうまくなかったことを言うのに、こんな言い訳を考えるのだから、食わせ物だ。面白いじゃないか。
で、この種の方向感覚の混乱は他にもある、とボラーニョは言うのだ。カラカスをコロンビアの首都、ボゴタをベネズエラの首都と勘違いしたり(正しくは、逆)……なぜか? CaracasだからColombiaの首都だという気がするというのだ。BogotáだからVenezuelaなのだと。
余談だが、こう感じるということは、ボラーニョはBとVを区別しない話者であるということだ。
今日ぼくが右と左を間違えたのは、ぼくは目も脚も左利きなのに手だけが右利きだからだ。利き手というのが脚と同じだったか違ったか、一瞬、混乱したのだ。あるいは矯正されて右利きになったので、矯正前の幼児の記憶が蘇ったのだ。
写真は『図書新聞』2月4日号4面。ここに安藤哲行『現代ラテンアメリカ文学併走』の書評を書いたのだ。昨日、いただいた。