2012年1月3日火曜日

こいつぁ春から……

昨日、1月2日、散歩から戻って仕事を再開しようとしたら、椅子が壊れてしまった。ぐにゃっと歪んだのだ。こんなふうになるというのは、どういうことなのか?

きっと姿勢が歪んでいるんだろうな。

近所のホームセンターでパイプ椅子を買った。この方がよっぽどすっきりしていい。ついでに他の椅子も捨ててしまおう。

『朝日新聞』には「壊れる民主主義」なんて記事が。「若者の渇きにポピュリズム」との見出しで、橋下徹とニコラ・サルコジを比較しながら、彼らの威勢の良さを前面に出した手法を「ポピュリズム」とし、それが若い世代の閉塞感の受け皿になっているとするもの。最後はポピュリズムの宴の後たる阿久根市の例などを出していて、なかなか面白い。

橋下徹が騒がれる前は、たとえば、シルヴィオ・ベルルスコーニ、石原慎太郎、小泉純一郎、ジョージ・W・ブッシュなどの威勢の良さが一種のポピュリズムと結びつけられたものだ。ただし、以前は「若者」ではなく、もっと違う階層の不満を吸収するものとして語られていたように思う。

TVのニュースでも見ようかと思ったら、ちょうどその橋下徹。「大阪の未来予想図を……」などと言っていた。「……」の部分はぼくによる省略ではない。TVではそれ以上流れなかったのだ。

未来予想図ね。なるほどね。こんな言葉遣いが「若者」を引き合いに出させる効果を上げているのかもしれない。

周知のこどく、「未来予想図」というのは、ドリームズ・カム・トゥルーの曲のタイトルで、近年ではそれをモチーフにして映画が作られたりもした。それからの借用だ。「未来予想図」。やれやれ、と思う。

こうした使い古されて陳腐に成り下がってしまった言葉をスローガンのように使ってしまう愚かな政治家のいかにも愚かな政治家然とした言語操作能力に不快感を覚える。そうした橋下の言葉を述部の音を消して、まさに「未来予想図」が目立つように編集して、この言語の貧しさを助長し強調するかのようなTVの、いかにもTV的な操作に辟易する。

言語によって何かを表現する以上、我々の言葉は大半は陳腐で恥ずかしい言い回しにまみれるものだ。その恥ずかしさに気づかず、陳腐な言葉をあたかも美しいスローガンであるかのように利用する態度は、なるほどポピュリズムであり、俗情との結託だ。陳腐な表現まみれの言葉の中で、わずかひと言でも、ほんの一瞬でもそうした陳腐さから逃れようとする言語活動だけが、傾聴に値する。

大阪の人たちは可哀想だ……

……と、東京の人間が言うのも虚しいか……(さすがに石原慎太郎は、「東京の未来予想図は……」などという言語的貧しさは持ち合わせていない。彼はただ精神が貧しいのだ。いや、彼の言語の貧しさは、また異質なものなのだ)