2011年7月20日水曜日

東大と京大には世界文学があるらしい

で、まあ授業も終わり(今日は会議が怒濤のごとく)、土曜日にはオープンキャンパスで模擬授業をしなければならない。スペイン語の授業ではなく、総合文化コースの授業の代表としての模擬授業だ。さて、何をしたらいいのだろう? 

という思いからだけでもないのだが、こんな2つを対比させたりもしている。
池澤夏樹『世界の文学をよみほどく:スタンダールからピンチョンまで』(新潮選書、2005)
辻原登『東京大学で世界文学を学ぶ』(集英社、2010)

後者については既に紹介済み。そのタイトルのとおり、東大での講義を本にしたもの。前者はその5年前に出た本。さらにその2年前2003年の京大での講義を本にしたもの。

うーむ。京大やら東大やらの日本を代表する大学では世界文学が読まれているらしい。池澤も辻原も「世界文学」を、たとえばダムロッシュのように明瞭に定義(文学として読まれること、翻訳によって流通すること)はしていないが、近似性と独自性を発揮していて、読み比べると面白い。二人とも自作も語っている。一方が『アンナ・カレーニナ』を嫌いだといいながら紹介し、今回はやめておくとした『ホヴァリ―夫人』を他方が扱っていたり、池澤が『百年の孤独』を挙げれば辻原がボルヘスやコルタサルを扱う……うむ。読み比べると面白い。

さあ、ではこの「世界文学」的流通を考えながら、他方でスペイン語圏に足を留めてみよう。それがぼくらの大学の特徴ではないか。そう考えたときぼくらが見出すのは『ドン・キホーテ』の、『ドン・フワン』の翻訳による流通とジャンルの壁を越えての流通だ。文学として読まれ、文学として翻訳され、文学の運命として多ジャンルに取り込まれた『ドン・キホーテ』。まずはミハイル・バリシニコフ版『ドン・キホーテ』(アメリカン・バレエ・シアター)あたりから観てみようか……

……ってな授業でもやればいいのかな?