2022年2月22日火曜日

僕もかつてバーのカウンターで友だちと同じ方向を見てしゃべっていた

三浦雅士は村上春樹のデビュー当時、その彼を論じながら、人と人とが対面で議論するのではなく、同じ方向を見ながらとめどない話をする時代の小説だ、というようなことを言っていた。僕はかつて池澤夏樹にインタヴューしたさいにこの三浦の指摘が当てはまるのは池澤の再デビュー作にして芥川賞受賞作『スティル・ライフ』ではないかと意見を述べたことがある。


バー小説などというものがあるとすれば、それはたとえば村上春樹『風の歌を聴け』であり、池澤夏樹『スティル・ライフ』である。そしてそれを小説に限らず映画や演劇にも敷衍してバー・ナラティヴなどというものを想定するなら、小沼純一作、坂手洋二演出『Speak low, No tail (tale). すぴいくろう のぅ・ている』燐光群@シアター・トップスがそれである。


猪熊恒和演じるマスターがいるカウンターだけのジャズ・バー〈スピーク・ロウ〉はもちろん、クルト・ヴァイルの曲から取った店名だ。レコードに針を落とす音が聞こえるようなその店で、常連客の鴨川てんしと川中健次郎がマイルス・デイヴィスやジョン・ケージらの死を悼むような話をしているのは、1991年頃のことだろう。はじめてこの店を訪れたらしい山尾(杉山英之)は、実は卒論を書きあぐねていたときだったらしいことは後から分かる。その彼が就職し、最初仲間に連れられてきたものの後にひとりで来るようになったミチ(山本由奈)と親密になり、親密になりきれず、独立してライターになる。そんな漠然とした流れが、短い場割りでスピーディーに、しかし、人物たちの語る音楽への蘊蓄と時事的話題によってゆったりと描かれる。同じ方向を向いてしゃべると、時間はこのようにゆったりと流れるという好例だ。91年くらいだった時代は2001年に、そして2011年にまで到達する。


同じ方向を向くのはバーのカウンターで並ぶ客ばかりではない。家の窓から向かいの家の猫を覗く母と娘(中山マリと円城寺あや)や、その同じ猫に餌付けしようとする老女(西村順子)もまた一方向を向いてとりとめのない話(つまり猫の話)をする。バーでの話に挿入されるもうひとつのストーリーは「しっぽがない」を劇化したものかな? 「ぼく」(大西孝洋)と実家の両親と妹・紗枝(樋尾麻衣子)と犬を巡る思い出語りだ。小沼さんの猫や犬への偏愛が楽しい。


バーでの会話は引用やらほのめかしやらがあって、きっとわかっていないものも多々あるのだろうが、常連客の川中健次郎が地下鉄サリン事件に触れてタイミング次第では自分も危なかったと語りながら、内幸町にある許可を取りに頻繁に行くと言っていたのは、きっとJASRACのことだろうと、かつてバイトで何度かそこに許可を取りに行ったことのある身としてはそう思ったので、これだけは主張しておこう。


ところで、この物語が始まる少し前の時代からこの時代にかけて、僕もジャズ・バーに通った。友人たちと一緒に行ったり、山本由奈みたいな女の子(女性でも女でもないのだ。この時代は「女の子」でないと)と行って口説いては傷つけないように優しくふられたりしていた。ひとりで行ったこともあった。たとえば、それこそ村上春樹の『ノルウェイの森』に出てくる〈ダグ〉などだ。今日の舞台はその〈ダグ〉の初代店舗から、実は20メートルばかりのところ、すぐ目と鼻の先にあるのだった。きっとそんなことも考えてシアター・トップスが選ばれたのだと思う。


写真はイメージ。