2021年10月4日月曜日

驚きの湧き水

太田光海監督『カナルタ――螺旋状の夢』セバスティアン・ツァマライン、パストーラ・タンチーマ他(日本、イギリス、2020)


試写会にご招待いただいていたのだが、時間が合わずに見ることができなかったので、公開後、さっそく見てきた。


マリアノ・ジナースの『ラ・フロール』もイメージ・フォーラム・フェスティヴァルで特別一挙公開だったのだが、さすがにいろいろなことに追われていて、尻込みした。代わりに(?)、これ。


マンチェスター大学グラナダ映像学院の映像人類学博士課程修了製作。つまり、博士論文みたいなものだ。


文化人類学が近年では映像(写真ではなく、動画、ドキュメンタリー・フィルム)を伴うことは、たとえば石橋純さんの「ハンモックの埋葬」(2000)や田沼幸子さんの Cuba sentimental (2010)らの例で知ることができるとおりだ。その先に「映像人類学」というのが今、立ち上がってきているのだな。


映画としてはドキュメンタリーに分類していいだろうから、物語、というものがあるわけではないが、ともかく、太田がエクワドルのアマソニーア(アマゾニア)地方、シュアールという先住民の村(ケンクイムと言っていた)に滞在し、そこのセバスティアンとパストーラの夫婦の活動を中心にフィルムに収めたもの(正確に言うとフィルムではないのだろうが、そこはもちろん、一種の比喩だ)。


セバスティアンは家の屋根を葺き替えるために親族らとシュロの葉を刈る。男たちはひっきりなしに妻パストーラの作ったチチャを飲みながら作業をする。開始からわずかみっつめのシークエンスでそんな様子が紹介されるのだから(そのひとつ前のシークエンスはパストーラのチチャづくりの行程。はじめて見たのだ)、引き込まれる。薬草の見つけ方、準備のしかた、マイキュアという、おそらく幻覚作用があるのだろう薬草の摂取のしかた、それによるトリップ、このトリップ状態でヴィジョンを見たと語るセバスティアンの話など。


「一方で、芸術の道も捨てきれない自分がいた」(劇場用パンフレット掲載のインタヴュー)と語る太田のカメラワークもときおりハッとさせられる。タバコ状にして吸引した薬物でトリップし歌った後に嘔吐し、煩悶するセバスティアンをときおり焦点をぼかしながらもつぶさに映すかと思ったら、彼が自分のナタで背中を傷つけてしまい、怪我をしたときにはその傷口を映すことには執心しない。しばらく後にその傷跡を数秒だけ映して治癒したことを伝える。こういう処理などはとても上品で好感が持てるのだ。


妻のパストーラはある本に触発された夢で蛇を見、その本に書かれていたとおりリーダーとなったと語る。村長なのだ。その立場で町の役人に掛け合い、水道を整備するように訴えている。彼女の村は密林にあるので、川も近くにあるし、セバスティアンは川を見ながら、この辺に住宅を建てるなら水をどうするか、とカメラの背後にいる太田に語ってもいる。が、もちろん、パストーラが交渉している水というのは川の水の問題ではなく、上下水道のこと、生活のこと住宅に供給される水のことだ。


こうしたやりとりがあるせいか(これがこの作品の地下水脈)、最後の最後、本当に最後のシーンには驚かされる。あるところから水が湧いてくるのだが、とても現実とは思えない。我ながらよくぞ叫ばないでいられたと思うのだった。本当にあんなあれがあるのかな? 



駅の上のカフェで情報整理。情報整理にはクロワッサンがいちばん……なのか?