2021年10月24日日曜日

すっきり!

昨日10月23日は現代文芸論研究発表会というので、午後、大学院生の発表を聞き、過去1年間に博士号を取得したひとの発表の司会をし、藤井光さんと宮下遼さんによる「一世たちと三世たち 記憶と物語」を聞き、ジョルディ・ソレールの『負け戦』3部作をやはり、どうにか紹介しなければ、との思いを新たにした。


その前日にはこれ:



『映画に学ぶスペイン語』教育評論社から復刊!


10年ほど前に出した旧版は、版元の東洋書店が倒産し、入手できなくなっていた。それを復活させようという話を持ってきてくださったので、初版時、原稿を書いたけれどもボツになった(たぶん、権利等の問題だと思う)4本を復活させた。装丁がポップな感じて、すてき。


さて、映画のDVD、BDなどを見るためにTVモニターをこんな風に置いていた。



いや、もちろん、TVも観ないわけではない。が、たとえば見逃すときのためにビデオに撮って観るというほどの番組はない。飯時に音楽を聴く気にもならない時とか、夜があまりにも静かで幽霊がいるように思ったので気を紛らわしたい時とかにつけてみて、興味をそそられるものがあればそのまま観る、といった程度だ(いわゆるバラエティ番組があまりにもうるさく思えて、最近はそのまま観ることもめったにない)。あるいは友人・知人が出ている番組をたまに観る。大相撲やニュースなどをのぞけば、家にいる限り定期的に観ているものといえば、BS-TBSの「街中華で飲ろうぜ!」くらいなものだ(それもTVerで視聴可能とのこと)。


ケチのつきはじめは、接触不良だった。TVのイヤフォンジャックからTVラックの下段に置いてあるステレオにつなげて音はステレオ(ヴィクターのウッドコーンのもの)を通じて聴いていた。が、何かの拍子に一度これを外したら、以後、ステレオから音が出なくなったのだ。マニュアルを見たりしていろいろと試してみたが、だめだ。


ところで、大学時代の友人で1、2位を争うテレビっ子(と思われる)夫婦の家に遊びに行ったとき、モバイルモニターのようなものがあるだけで、今どきの大画面液晶TVなどなかった。意外に思った。同時に、TVを観て楽しむということは画面の大きさには無関係なのだと気づいた。そういえば以前、吉田秀和を追ったNHKのドキュメンタリーで、彼が音楽を聴いている機材が僕が当時持っていたのと同じコンパクト・コンポなのを見て、びっくりすると同時に、そうか、これでいいのか、と妙に安心したことがあった。そんなことを思い出す出来事だったのだ。実際、机に置いたマック用のモニターはだいぶ大きく見えるけれども、実は21インチだから32インチのTV(最近では小さい方。でも僕には充分だった)に比べるとはるかに小さい。近くから見れば、小さくても大きく見えるのだ。当たり前のことだけど。


最近は見逃し配信のサイトとかもある。NHKは何かのついでのときにNHK+なんてのに入ったので、やはりほぼ同時配信で観ることも可能なようだ。ならば、TV受像機とチューナーとしてのBDプレイヤーを常に接続して設置している必要はないのではないか。そう思った。きっと僕のことだから、取り払ってしまったら観たくなるのだろうけど、それはタバコをやめたときの喫煙欲と同じで、しばらく我慢すれば通り過ぎるだろう。


そんなわけで、TVとBDは必要な時だけ取り出すことにして書庫にしまい、TVのあったところにはステレオだけを置いた。



こんな感じ。すっきりだ。いずれTVとBDも処分して、ついでにマック用のモニタも処分して、モバイルモニターとポータブルBDプレイヤーに替えようか(ディスク鑑賞時のために)と思う。


ところで、ジャン=フィリップ・トゥーサン『テレビジョン』という小説がある(野崎歓訳、集英社文庫)。TVを観ない決心をした語り手がむずむずして過ごす話。僕の好きな小説のひとつだ。