2021年4月11日日曜日

お忍びで巡礼に? 

実は老母が2ヶ月ほど入院していて、その退院の手続きに行っていた。週末。一泊だけの旅行だ。こんな時期ではあるが、こればかりはしかたがない。


2日目。帰宅前に時間を作って父の家にも行ってみた。以前、義姉(兄の妻)が行ってみたら更地になっていたみたいなことを言っていたので、僕も見ておこうと思ったのだ。




更地というか、草地であった。(というか、そもそもここであったかどうかすら、定かではない……)


ついでに、実に40年ぶりくらい(いや、もっとか?)に行ってみた。




ばあ加那の家。




そして芦花部一番の碑。


おととし3月に「儀志直始末記」という短篇小説を発表した(『たべるのがおそい』Vol. 7)。「儀志直」という短篇小説とその作者とおぼしき人物についての考察の体裁をとったオートフィクションだ。短篇内短篇「儀志直」は儀志直とその娘ばあ加那(これがいわゆる芦花部一番のばあ加那とされるが、実のところ、僕は疑っている。よくわからないのだ)の悲劇を扱ったものだった。


自分でも面白いなと思うしかけやら史料の改竄やらを経て作った短篇内短篇なのだが、そこでばあ加那の生家を「小川をまたぐ屋敷」とし、彼女の墓を「小川が発するあたり」とした。それは漠然とこの歌碑や生家跡の碑が念頭にあったとは言え、それが小川を跨いだりその近くやそれが発するあたりにあったりしたのかは、確信がなかった。僕はむしろ、僕の生家(父の家)を鮮明に思い出し、その家と小川を挟んだ向かいにある教員宿舎も家の土地だったと聞かされた記憶から、その家(僕の生家)の記憶とない交ぜなままに「小川」を置いたのだった。


で、それを確かめに行ったという次第だ。ばあ加那生家跡の碑の近くには、僕の家の前とは異なる小川が確かに流れており、そこを少しさかのぼった場所の(さすがに小川の源流ではないものの)川をまたいだ場所に歌碑は建っていた。




ただし、教会や学校の位置など、その集落についての記憶はだいぶ変形を被っていたようだ。僕がはじめてエポック社の野球盤に興じたあの遠い親戚の家はどこにあったのだったか?……