怖い映画である。1982年のメキシコのロペス=ポルティーヨによる債務危機のころを背景に、それによって没落する家庭の主婦を描いた作品。マリア・グワダルーペ・ロアエサによる小説 Las niñas bien (1985)を原案とする。映画の原題もこれに同じ。ただし、パンフレットに文章を寄せた野谷文昭によれば、92年の小説 Compro, luego existo からも登場人物やエピソードを借りているらしい。「我買う、ゆえに我あり」だ。”niñas bien” は「良家の子女」などの意。ただし、もう少し多義的らしい。ラス・ローマスだかローマス・デ・チャプルテペックだか、ともかくメキシコ市西部の高級住宅街に住むソフィーア(イルセ・サラス)がメキシコの危機により没落する様子をゆっくり、執拗に描いた映画。妻たちのいわば社交界で花形だったソフィーアが夫の没落とともに疎まれるようになり、最初、軽蔑して仲間に入れたくないと思っていた証券ブローカーの妻アナ・パウラ(パウリーナ・ガイタン)と立場が逆転してしまう。
金持ちの妻たちの会話を、映画のパンフレットは「マウンティング」と表現する。なるほど、そういう側面はある。でも、それだけではない。ソフィーアがアナ・パウラを快く思わないのは、いわば、悪趣味というか、品がないと思うからだ。それが例えば言葉遣いにも表れるからだ。「ごゆっくり召し上がれ」”Buen provecho” に縮小辞をつけて “Buen provechito” なんて言う。「世界中/誰もが」という成句を “todo mundo” と言ってしまう。だからソフィーアは “provechito” なんて言うなとたしなめたり、 “todo el mundo” だと訂正したりする。アナ・パウラはたぶん、悪趣味で無教養な者とみなされる。その悪趣味が席捲してしまう時代の到来に、ソフィーアは圧倒され、打ち負かされる。
1982年。時代は世界的に新自由主義経済政策を採用しはじめたころだ。経済が政治の統制から自由になろうとしている時代だ。グローバル化の入口に来たのだ。血筋がなくても、教養がなくても、金持ちになったものが威張ることができる、そんな時代が始まったのだ。
屈辱的な現実を受け入れた後のソフィーアの行動に、夫のフェルナンド(ファビオ・メディーナ)が顔をしかめるところで映画は終わる。僕らはソフィーアの気持ちもフェルナンドの気持ちもわからないではない。品格などというものを信奉する気はない。かといって下品さを受け入れるわけにもいかない。辛いのだ。怖いのだ。
映画の中でシンボリックな働きをしているのが、なんといっても、肩パッド。これに命をかけているかのような時代が、確かにあったのだ。そしてあるとき、確かに女たちは肩パッドを捨てたのだ。流行っている当時はいいと思ったことのないフリオ・イグレシアスの「人生を忘れて」が、絶妙なタイミングで流れてきて、良い。蒙を啓かれたものである。
昨日、経営破綻したとのニュースが流れたブルックス・ブラザーズのポロシャツ。日本店は独立でやっているので、当分大丈夫だとのこと。これを最近買ったのだが、この映画を観たことを報告する記事についでに出すのはふさわしいような気がする。