昨日〆切りの原稿を、〆切りのその日に書き終え、同僚の最終講義に行ってきた。
同僚というのは中地義和さん。「ランボーと分身」というタイトルでそのテクスト分析の手法を披露してくださった。
昨日〆切りの原稿というのは、次の本に関するもの。
星野智幸『焰』(新潮社、2018)
大人の事情があるので、その原稿に書かなかったことを、一部……
『焰』は短篇集というよりは連作短篇で、読みようによっては長篇小説とも思える1冊。長編小説とも思えるのは、短篇と短篇とを繋ぐ短い文章があるからだ。冒頭は災害だか壊滅的な戦争の直後だかで生き残った僅かな人間たちが、焰を囲んで一人ずつ話を始めることが説明される。『トラテロルコの夜』や『関東大震災 朝鮮人虐殺の記録』からの引用が差し挟まれ、つまりは災害というよりは人為的な災害による人類の死滅が示唆されているのだろう。戦争の後なのだ。
ひとつひとつの短篇は、自分ではない何ものかになる人物の話だ。その自分以外のものになるなり方が面白い。たとえば第四話「クエルボ」は、スペイン語を理解するものはすぐに察しがつくように、カラスになる人物の話。妻から「クエルボ」とあだ名される人物だからこのタイトルがついているのだが、このあだ名は、彼がテキーラのホセ・クエルボを飲んでいたから。こうしたミスリードをするのだが、繰り返すが、スベイン語を解するものならすぐに察しがつく。この人はカラスになるのだ。
ところで、この人物は第一話「ピンク」にも出てくる。
「クエルボ、またカラス?」と妻にうんざりされながら、一心不乱に池を眺める初老の男もいる。(14-15)
この「初老の男」が、クエルボこと室内なる人物。しかし、まだ第四話に至らない読者としては、ここで戸惑う。「クエルボ、またカラス?」だからだ。「カラス、またカラス?」と言っているのだろうか? 最初の「クエルボ」は呼びかけではなく、この発話をした女性(室内の妻・亜矢子)がスペイン語と日本語の話者で、単にスペイン語で「カラス」といい、それから自己翻訳して「カラス」と言い換えただけなのか? という具合に。
けれども、ともかく、「クエルボ」はあだ名だ。そしてあだ名どおりにカラスに変わるのだ。
カラスにつきまとわれることになった「私」こと室内は、ある日、カラスたちが自分に向けて上空から急降下し、バンジージャンプのようにまた上昇を繰り返すさまを眺めている。
圧倒されてたたずむほかない私をよそに、カラスたちは落下劇を続け、食事を終えた個体まで加わり、うち一羽は落ちてから飛びあがるときに私の肩にぶつかったりした。俺をからかっているのか、と頭に血が上りかけたが、そのカラスは私の前に降り立って、私のことをじっと見つめ、クー、クーと小声で鳴いた。私はしゃがんだ姿勢で後ろ手を組み、カラスのつもりで、アーアーと喉から声を出してみた。
気持ちいい。自然な気がする。
カラスはそんな私をもうしばらく無言で見つめると、ついて来いという形に小首をかしげ、また飛び上がって遊びを再開した。私はついて行かれないことに無念を感じた。(101 下線は引用者)
たとえば猫を呼ぶときに、僕たちはしゃがんで猫の鳴き声を真似たりするわけだが、それに似たようなことをカラスに対してやったときに「気持ちいい」と、しかも「自然な気がする」と。ましてやその後、彼らについて行けないことに「無念を感じた」となったら、もうこの人はカラスになりかけているのだ。
ちなみにこのクエルボ、実際にカラスになったときには卵まで産むのだが、その描写もまた面白い。引用しないけど。みなさん、自分で読んでね。
つまり「私」はメスのカラスになったということだ。種が変わっただけではない。性をも超えたのだ。そのへんがまた面白いところでもある。最終話「世界大角力共和国杯」なんざ、冒頭から「ぼくはおかみさん。角力部屋のおかみさんである」(230)だものな。まいっちゃうな。