2017年5月9日火曜日

おふざけはどこまで許されるか? 

まあともかく、こんなふうに(リンク)『方法異説』の翻訳の悪さに腹を立てているわけだが、今回は、そうではなくて(相変わらず手抜きは感じられるものの、僕だって何かを悪し様にばかり言うのはつらい)、純粋におかしいと思った箇所。「おかしい」というのは、「怪しい」の意味ではなく、「可笑しい」、つまり笑ってしまった例だ。

竜巻による突風――地元民の言う「ヒラヒラ」――(56)

という表現があった。僕の語感では「ヒラヒラ」は突風を表現するにしてはのどかだ。いったい、何の訳語だろう? 確かめた。

la ventolera de tromba --la "gira-gira" como decían los lugareños-- 

「ヒラヒラ」に相当するのは "gira-gira" だ。giraは動詞girarの現在形・三人称単数の活用。もしくは二人称に対する命令形。girarは「曲がる」とか「回る」の意味なので、きっと竜巻trombaを表す俗語だろう。僕なら「ぐるんぐるん」とか「回れ回れ」とでも訳すだろうか? 

しかして、この "gira-gira" 、スペイン語に即して音表記するなら、「ヒラヒラ」だ。つまり、音が同一だといっておふざけで「ヒラヒラ」としているのだ。

これに賛同する気はさらさらないが、かといって批判したり否定したりする気もない。ただ笑っただけだ。そして考えさせられた。

僕はかつてこの種の悪ふざけを試みたことがある。

スペイン語の敬称にDonというのがある。「ドン」。男性の個人名につける敬称だ。ドン・フアンやらドン・キホーテの「ドン」。

ドン・フアンやドン・キホーテはもうほとんど「ドン」とセットで認識されているので、いまさら変えるつもりはないが、僕はできるだけこの「ドン」を「ドン」と表記したくない。たとえば、Don Joaquín を「ドン・ホアキン」と書きたくない。大抵は「ホアキンさん」などと書く。

一度、ある小説を訳しているとき、ちょっとふざけた文章で出てきたDon Joaquínを「ホアキンどん」と訳してみた。「どん」だ。西郷どん(「せごどん」と読め)の「どん」。「どの」が撥音便化した「どん」。

編集者には即座に却下された。

僕としてもどれくらいの悪ふざけが通用するか試したかったという程度で、固執する気もなかったので、「へい。わかりやした。「ホアキンさん」で行きます」となったわけだが。

たとえば、メキシコにhuaracheというものがある。先住民由来のサンダルだ。他の国にはない単語だ。読みは「ワラッチェ」「ワラーチェ」「ワラチェ」等々。きっと僕はこれが出てきたら「わらじ」と訳してしまうと思う(そして編集者との攻防が……?)。

幸い、僕はまだhuaracheの出てくる本を訳したことはない。


さて、僕は問いかけたいのだ。音が同一で、意味は少しずれるかもしれない語を、音に合わせてさも日本語の単語のように表記することは、どこまで許されるのだろうか? 

(追記:書き終えてずっと経ってから思いついたこと。あ、そうか、「ヒラヒラ」って日本語のオノマトペでなく、"gira-gira" の音だけを転記した、外来語(?)としての表記だったのだろうか? だとしたら、以上の話はまったくの無駄になる。そして、もしそうだとしたら、この部分の訳は、やはり良くないと僕は言いたい。でもなあ、僕はともかく、これを読んだ時、「ヒラヒラ」は日本語だと思ったのだよ……)