昨日、ツイッターの「トレンド」欄(画面左側のコラムに今ツイッター上で盛んに書かれている単語が表示される。それが、「トレンド」)に「地毛証明書」というのがあったから、きっとカツラ狩り(これはこれでひどい)に対抗する手段か何かかと思っていたら、今朝の新聞によれば、高校の生活指導だとのこと。都立高校の6割が、天然パーマや髪の色の薄い生徒に提出させているのだそうだ。都立高校だ。とんでもないことだ。
それで思い出したのが中学の丸刈り規則問題。Wikipediaによれば、ごく最近まで存在していたのだ。
中学の丸刈り規則問題というのは、日本の少なからぬ地方の公立中学などで、男子は丸刈りとすることという規則を設けたり、それを推奨するとした方針を打ち出したり、あるいは明文化せずとも、そんな規則が存在するかのように、当然のごとく生徒に丸刈りを強いていたという問題。僕が中学に入ったのは1976年で、そのころは、明文化されていたかいなか、校則なのか「推奨」なのかを問わず、実質、鹿児島県の公立中学の男子生徒はほぼすべてが丸刈りだった。
大学に入ったころに、この中学生の丸刈り問題が全国的に話題になったことがあったと記憶する。鹿児島県だけではなかったのだと感心した記憶がある。そして、あくまでもWikipedia によれば、2000年代にも男子は坊主頭とするところは存続していて、やっと13年ころに、どうやらなくなったらしい。
本当だろうか? 僕が先日実家に帰ったときには、小学生たちの中に、特に高学年の子に坊主頭の子がいた。彼らは来たるべき中学入学に備えて、今から頭を丸めて準備しているのではないのか? 40年ばかり前の僕のように……?
奄美地方は特に最後まで丸刈り規則が撤廃されなかった地域だというから、心配だ。
40年ばかり前、僕もある日、ふと思い立って、坊主頭にしたのだ。「思い立って」というのは衝動的にという程度の意味だ。そこに自発性はあまりない。もう2、3年すれば中学に入ることになる、中学に入ると坊主頭にしなければならない、今からそれに備えていた方がいいのじゃないか、というプレッシャーのようなものが常に僕の頭の中にはあった。そのプレッシャーに屈したのだ。
生まれついて髪は柔らかく少なめな方だった。それに少し縮れている。ある長さになると途端に、ほんの僅かではあるが、ウェーヴがかかる。あまり美しい髪型はできそうにない。伸びるのも遅い。そういうあきらめのようなものは10歳のころにはある程度あった。事実、大人になってからも僕はあまり髪を長く伸ばしたことはない。人生で一番長かったのは、おそらく博士課程のころの数年間で、当時はオールバックにしてそれを固めるでなく、自然に左右に崩れ落ちるに任せていた(そういう髪型、何か呼び名があっただろうか? どうも記憶にない)。わずか2、3年の間のことだ。そういう写真が残っている。
しかし、40を過ぎたあたりからは、だいぶ薄くなってきたこともあって、坊主頭が少し伸びた、といった程度だ。長い目で見れば、坊主頭かそうでないかは、大した問題ではない。
しかし、40を過ぎたあたりからは、だいぶ薄くなってきたこともあって、坊主頭が少し伸びた、といった程度だ。長い目で見れば、坊主頭かそうでないかは、大した問題ではない。
しかし、それでも、自ら思い立って髪を丸めた日のことは忘れられない。僕はその日、これは夢に違いない、夢であってくれ、明日にはまた、髪を切る前の僕に戻っていてくれと願いながら就寝した。翌朝、起きてみると、髪は丸まったままだ。鏡を見ながら、この時間は、この人生は夢に違いない、夢であってくれ、と願い続けた。
そしてそれから40年ばかり、僕はずっと、自分の目の前で起こっていることは、自分が歩んでいる人生は、すべて夢に違いないと思っている。思い立って坊主頭にしたあの小学校4年の日、坊主頭にする直前までが僕の本当の人生だったと思っている。あの日、僕は本当の僕の人生を奪われてしまったのだと思っている。
理論的に考えれば、僕はきっと、坊主頭にしなければ、今度は髪にウェーヴがかかっていることによって学校(中学か高校か、あるいはその両方)から罰される運命にあっただろうと思う。そして、繰り返すが、今となっては髪など丸刈りと大差ない長さにしかできないのだし、そんなものでいいとも思っているのだが、でもやはり、男の子は丸刈りにしなければならないという運命の圧力に負け、髪を切り落としてしまった時のショックはどうあっても拭い去れない。ショックであり、屈辱であり、理解不能だ。
ある程度髪が薄くなると見切りをつけて自らスキンヘッドにする人々も少なからずいて、僕も今はそれくらいした方がいいのではと考えることもしばしばではあるのだが、なかなかそうした決断ができずにいるのは、40年前のあの日のショック、以後、自分の人生が自分のものだと思えなくなったむなしさを、もう一度感じることになるのじゃないかという漠然とした恐怖に駆られるからなのだと思っている。