上京してすぐに住んだ国分寺のアパートのすぐ近くには映画館があった。映画館といっても2番館で、2本立て、3本立てで好きなだけちょっと古い映画が観られるという場所。暇があって金のない僕は、よくここに通った。大島渚の『戦場のメリークリスマス』などはここで観た。が、その映画館でかかっている映画の大半は日活のロマンポルノだった。ポルノ専門館ではないけれども、ロマンポルノがかかることが多かった。ちょうど当時はポルノ出身の女優(白川和子、風祭ゆき等々)が一般の映画やTVドラマに欠かせない存在になっていたり、ロマンポルノ出身のアイドル(美保純とか)が出たり、逆に普通のアイドル女優(早乙女愛など)だった人がポルノに出たりしていた時期で、ここや、東映のピンク映画上がりの若い監督が一般作品で名を挙げ始めたころでもあって、日活ロマンポルノの潰える直前の最後の輝きがみられた時代だったという次第。1983年のこと。
根岸吉太郎『キャバレー日記』竹井みどり主演、なんてのは印象深いのだ。
だから、日活が「ロマンポルノ・リブート」などと称して、行定勲や中田秀夫ら5人の監督の撮るロマンポルノの企画を打ち出した時には、1本くらいは観ようかな、などとぼんやりと考えていたのだけど、今日、思い立って園子温『アンチポルノ』を観てきた。
映画の日だった。新宿武蔵野館の100席に満たないスクリーン3とはいえ、ほぼ満席だった。女性客もかなりの数いた。
周知のごとく、ロマンポルノが面白かったのは、10分に一度濡れ場を入れるという制約さえ守れば何をしてもいいという自由さを大いに生かし、若い監督たちが撮りたいストーリーを思う存分に撮っていたからだった。園子温もその制約=自由を逆手に取り、男の作った「自由」に苦しめられる少女の自我の叫びを撮った。
隷従と鞭打ち(つまりSM)、レズビアン、近親相姦、両親の性交現場の窃視、そしてスカトロまで、ポルノ映画と性のオブセッションに纏わる記号をこれでもかというくらいに挿入しながらも、基調はペドロ・アルモドバル的原色の内装の部屋で繰り広げられるルイス・ブニュエル的反復脅迫の悪夢、どんでん返しによる主従の転換(主人と奴隷の弁証法)なのだった。「10分に1度の濡れ場」の制約も、過ぎ去ってしばらくしてから、そうか、そういえばあれは濡れ場なのか、と気づくものも多く、つまりは、ロマンポルノが脱構築されているのだ。
閉ざされた空間でのセリフ劇だからだろうか、さすがに舞台出身の筒井真理子の存在感が水際立っていた。さすがなのだ。