日本の一部の映画配給会社の横暴(控えめに言って横暴、僕の本音をいえば人権意識の欠如)には腹に据えかねるところがあって、あれだけハリウッドからも引く手あまたでありながらスペインに、とりわけマドリードの市井の人々の語りに強くこだわるペドロ・アルモドーバル(あるインタヴューでも語り口の重要性を彼は語っていたのだ)が、いかにアリス・マンローの原作とはいえ、スペインを舞台に脚色した映画の、いかにもスペイン風のその主人公と同名のタイトルJulietaフリエータを、どこにもない名前の音に変えるなど、監督への冒涜も甚だしいのだ。
そんな風に腹を立てていたら最初の公開時期に見損なってしまった。それが早稲田松竹で『トーク・トゥー・ハー』との2本立てでやっていたので(早稲田での非常勤の仕事帰りに前を通りかかり、知った)、今日はダリーオ・グランディネッティ祭だとばかりに見に行ってきた。
何度も見ているのに、『トーク・トゥ・ハー』(このタイトルにもいろいろと言いたいことがあるぞ)でアリシア(レオノール・ワトリング)に意識が戻っていたことが発覚する瞬間には泣きそうになる。
さて、問題の『フリエータ』(スペイン、2016)。
2人の人間(列車で話しかけてきた見知らぬ男と夫)を自分の素っ気ない態度がもとで死なせてしまったかもしれないという罪の意識から抑鬱症を患い、娘に助けてもらったと思っていたら、実はその娘は周囲の者からいろいろと聞いていて、ずいぶん複雑な思いでいたらしい。その娘の心理を描かずして(ただ不在によってほのめかす)葛藤から和解にいたるまでを語るという、実に繊細な話。
恋人ロレンソ(グランディネッティ)とリスボンで新生活を始めようとしていたフリエータ(エマ・スワーレス)が、街角で娘アンティーアの親友ベアトリス(ミシェレ・ジェネ)と行き違い、スイスでアンティーアに会ったと告げられる。それで思い直し、マドリードの昔のアパートに引っ越して、娘に向けて彼女の父親との出会いから今までを手記に書きつける、という形式。回想の中の若いフリエータをアドリアーナ・ウガルテが演じている。
列車で話しかけてきた男を避け、避難した食堂車で漁師のショアンと知り合い、男の自殺にほだされ関係を持ったフリエタは、代用教員の時期が終わると誘われてガリシアのショアンの家へ。寝たきりになっていたショアンの妻は死んだところで、そのままそこに住みつき、子どもが生まれ、家庭を持つ。ところがショアンは寝たきりの妻の目を盗んで昔からアバ(インマ・クエスタ)と関係を持っていたらしい。そのことをほのめかされ、問い詰めると、ショアンは漁へ。その日、難破して死んでしまう。娘のアンティーアが夏期キャンプでベアトリスと仲良くなり、マドリードに訪ねたついでに、そのまま転居、出版社の校閲係をしながら鬱病と闘ってどうにか立ち直ったと思ったところで、アンティーアはピレネーの山に瞑想生活に出て、そのまま行方をくらます……という展開。
マドリードのアパートが2種類出てくる。いかにも近代的で無機質、白く、IHコンロなのと、昔ながらの石造り、木の扉が重々しく、壁もみずから塗り替えて住むようなもの。フリエータはそのふたつを棲み分けることになるのだが、やはり、後者がいいのだ。
ロッシ・デ・パルマが出ていた。
早稲田松竹の帰りは高田馬場のオムライスlabo でテキサス・オムライス(ハンバーグつきということ)を食べた。ハンバーグとオムライスって、……好みがどれだけ若い(幼い)のか。