2016年8月15日月曜日

ゴジラとともに、あるいは石原さとみ讃

庵野秀明総監督『シン・ゴジラ』(東宝、2016)である。

Sin Godzilla(ゴジラなし)ではない。むしろCon Godzilla(ゴジラとともに)だ。「シン・ゴジラ」の「シン」の意味は、たぶん、「新」だ。事実、この作品には先行するゴジラ映画に比してふたつの新機軸がある。

ゴジラが出現し、人類が英智を振り絞り、技術力=軍事力の粋を凝らして退治する。ゴジラ映画のストーリーなど常にそんなものだし、『シン・ゴジラ』もそんなストーリーだ。ゴジラのあり方やその退治の仕方などに意匠を凝らすのがこの手の映画のヴァリエーションだ。その意味だけでもこの映画は十分面白い。世代交代を経ずして進化する(要するに変態する)ゴジラなのだから。

ただ、今回の新しさはゴジラに対峙し退治すべく振り絞られる英智(インテリジェンス)が政府情報機関(インテリジェンス)であることだ。ストーリーのほとんどは総理官邸とその避難先である立川の防災基地で繰り広げられる。だからこそ、軍事力行使のための手続きが、たぶん、ゴジラ映画史上はじめて前景化されることになった。

それゆえこの映画はフクシマの悲劇と戦争関連法案をめぐる昨今の事情へのアレゴリカルなレヴェルでの批判として理解される。そういう解釈をしている人は多いようだ。防衛大臣が女性であること(余貴美子)、金銭スキャンダルに見舞われたくせになぜかやめずにいる実在の大臣によく似た人物(誰とは言いません)のキャスティングなど、なるほど、アレゴリカル・キャラクターは多い。合衆国の傀儡である政府の悲哀もあぶり出されている。主人公の大臣補佐の名矢口蘭堂(長谷川博己)すらアレゴリー的だ。こうした解釈が可能になるのも、怪獣パニックものではめったにみられなかった官僚的手続きが語られるからだ。

この映画のふたつめの新しさは、おそらく映画中すべてのキャストに徹底されていた早い台詞回しに由来する。ハリウッドのパニックものを意識しているのだろう。母語話者も100%は理解できないのではないかというスピードでの会話はキビキビとして小気味いい。その台詞回しの成果として、この映画の第二の新機軸が出現する。

石原さとみだ。彼女の演じるUSA大統領特使カヨコ・アン・パターソンだ。

日本語もしゃべれる外国(他国もありうるが、話をわかりやすくするために、ここではUSAのみに話を絞ろう)からの使者というのも、この手の映画ではなくてはならない存在だ。しかして、そうした存在はどんな発話をしていたか? いわゆる「カタコト」である。英語訛りを消しきれない日本語話者だ。いや、むしろ、彼らは英語訛りを残していなければならなかったはずだ。それが外国からの使者であり、異者であり、彼と我とを繋ぐ存在となりえる者の符丁もしくは聖痕だったのだ。

しかるに石原さとみは祖母が日本人という設定で、日本語は流暢に(石原さとみだと思えば当たり前だが)、英語もそれなりに(さすが、AEONのCMは伊達ではない。とはいっても、もちろん、完璧ではないが、それには目をつむろう)、そして日本語中に混じる英単語は英語風に発音する発話を駆使して不思議と嫌味なしに演じている。

不思議だ。こんな発話がこれだけ嫌味なしに演じられるのは、既に述べた台詞回しの速さだけでなく、この女優の力に預かるところ大なのだろう。石原さとみって、実はすごい役者なのじゃないかと思う。

いや、女優として石原さとみその人が好きだ、ファンだと言っているわけではない(まあ好きよ。でも、……というくらい)。ファンというならば僕は、今回ほぼスッピン(もしくはスッピン風メイク)で環境省の切れ者官僚を演じていた市川実日子さんのファンだ。お姉さんの市川実和子さんともども、大ファンだ。彼女たちのことなら何ページでも讃えてみせよう。そうではないのに、今回、石原さとみに魅入られてしまったのだ。


我々は石原さとみとともに生きるしかない。