『エイゼンシュテイン・イン・グアナフアト』についての先ほどの書き込みには書き忘れたけれども、グリーナウェイをやはりどうしても見てしまうのは、彼に一種ポストコロニアルな視点があるから。セックスのシーンでのセリフが実に示唆に満ちている。
さて、連日のホモセクシュアルもの(?)だ。
ラ・ボカという海沿いの田舎町で集団生活をする神父たちのもとに、マティーアス・ラスカーノ神父(ホセ・ソーサ)が送り込まれる。マティーアスは自分はここにいる他の神父たちとは違うのだと主張する。どうもここは、主に男色や幼児虐待を疑われた聖職者たちが、その罪を悔悟するために住んでいるコロニーらしい。外界から遮断され、監視役の、これも訳ありらしいマザー・モニカ(アントニア・セヘーラ)が唯一の接触係だ。ことさらビダル神父(アルフレード・カストロ)の可愛がっているグレイハウンドのラヨを地元のドッグレースで走らせるのも彼女の役目だ。(神父たちは遠くから眺めるだけ)
さて、マティーアスがやって来てすぐ、この施設の門前にサンドーカン(ロベルト・ファリーアス)が現れ、大声でマティーアス神父の幼児虐待(虐待とは、性的、という意味だ)の過去を大声で暴き立てる。ピストルで威嚇するように言われて外に出たマティーアスは、威嚇するどころか、それで自殺してしまう。
この件について調査する目的で、教会からガルシア神父(マルセロ・アロンソ)がやって来るが、どうもこの施設を潰すのが目的らしい。
サンドーカンは地元に住みつき、漁師の手伝いを始める。この目障りな存在を懲らしめようとする陰謀が映画のクライマックスなのだが、その後、どんでん返しの結末に向かう。
サンドーカンはマティーアスを告発しようとしていたのではない。彼は神父が忘れられなかったのだ。彼とのアナル・セックス、オーラル・セックスが。精液を飲むことが天国へ至る道だと教えられ(聖体拝領みたいだ。聖餅と赤ワインでキリストの肉と血を受け入れるものだった儀式が白ワインに換わったのは、白ワインが精液のことだからだと言ったのはバタイユだったか?)、本当に天国にのぼる思いをしたというのだ。この感覚が、物語の展開の最後のどんでん返しを支える論理なのだと思う。
性に関する単語は、登場人物たちはほとんど通常の単語で発していたように思うのだが、字幕はことさら俗語風だったように思う。それが残念。最後の最後にビダル神父がひと言、"Concha su madre"と呟くのだが、これの爆発力が減じてしまいそうだ。